日本ではリゾート地として有名なグアム。そこの太平洋戦争記念館ビジターセンターには、旧日本海軍の潜水艦「甲標的」が保存・展示されています。ただ、グアム島の攻防で潜水艦は使われたのでしょうか。調べてみました。
日本ではリゾート地として有名なグアム。そこには、観光地にしてはやや不釣り合いな旧日本海軍の潜水艦が展示されています。それは、グアム島中西部にある太平洋戦争記念館ビジターセンターで展示されている「甲標的(こうひょうてき)」です。
グアムに行ったら旧海軍の潜水艦がありました 艦首が変な形をし…の画像はこちら >>グアムの太平洋戦争記念館ビジターセンターで展示されている「甲標的」。現在はアメリカ政府の資産となり、2002年には大規模な修復も行われている(布留川 司撮影)。
「甲標的」は特殊潜航艇と呼ばれる小型の潜水艇で、その大きさは全長約23m、全高約3m。わずか2名の乗員で運用できました(展示されている潜水艇は改良型の丙型で乗員数は3名)。
船体の前部には2門の魚雷発射管が装備されており、その先端部は大砲のように艦首から突き出ています。ただし、船内には最装填する機構や予備魚雷などもないため、ここに搭載された魚雷2本が、この潜水艇の全攻撃力になります。
船体の中央付近にある司令塔の下には乗員が乗る操縦室があり、その前後には224個のバッテリーが収納されています。2名の乗員に割り振られた内部のスペースは最小限で、展示場所にあった解説パネルには「快適性を無視した設計」と記されていました。
この「甲標的」は旧日本軍の有名兵器である零式戦闘機や戦艦「大和」と比べるとやや地味な印象がありますが、太平洋戦争中にはさまざまな戦場に投入されており、日米開戦のきっかけとなった1941(昭和16)年12月のハワイ真珠湾攻撃にも参加しています。
このときの戦闘は空母から発艦した艦載機による空襲が有名ですが、「甲標的」は5隻が出撃しています。しかし、この潜水艇にとっての初陣にもなった真珠湾攻撃では、確認された戦果を挙げることはできず、5隻すべてが未帰還となりました。
また、この内の1隻は空襲前にアメリカ海軍の駆逐艦と交戦して撃沈されており、太平洋戦争で最初の犠牲にもなっています。また、別の1隻は真珠湾で座礁し、乗員の1人は海岸に漂着後、アメリカ軍に捕らえられ、こちらも同戦争での最初の日本軍捕虜となりました。
「甲標的」は、小規模な船体と前述したような真珠湾攻撃での状況から、片道切符の特攻兵器というイメージを持つかもしれません。しかし、決してそのようなことはなく、交戦した後は帰還しようと思えば可能でした。
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中央の司令塔部分。上に伸びているのは潜望鏡で、この潜水艇唯一の目標探索装置であった(布留川 司撮影)。
では、なぜ、あのような性能やサイズになったのでしょうか。それはこの潜水艇が艦隊同士の決戦を想定して開発されたからです。
「甲標的」は艦隊に随伴する母艦から発進し、本体の前衛として最初に敵艦隊を魚雷で攻撃。その後はその場に留まって後で艦隊に回収されることを想定していました。海中待ち伏せに特化した「魚雷発射プラットフォーム」ともいえる兵器で、そのために短い航続距離と小型の船体でも十分だと考えられました。
しかし、空母と航空機の発展によって艦隊同士が直接戦闘を行う思想が過去のものとなったことで、艦隊の前衛として戦う「甲標的」の運用方法も見直されることになりました。そして、代わりに生まれたのが、真珠湾攻撃のような敵港湾施設への侵入攻撃だったのです。
「甲標的」はエンジンを搭載しておらず、航行はバッテリーのみであるため、航続距離は約150kmと極めて短くなっていました。そのため戦闘では自力で港から出航せずに、潜水艦や母艦に搭載されて敵地近傍の海域まで運んでもらい、そこから発進して敵港湾部を攻撃するという運用がとられています。
真珠湾攻撃以降もさまざまな海域で港湾部攻撃を実施しており、1942(昭和17)年にはオーストラリアのシドニー港とマダガスカル島のディエゴ・スアレス港を攻撃して、停泊中の艦船を撃沈・大破させるなどの被害を与えました。
しかし、船体の小ささや運動性の悪さから、通常の潜水艦のような雷撃戦は難しく、航続距離も短かったことから結果的に帰還が困難な場合も多かったようです。このグアムに展示されている潜水艇も、1944(昭和19)年8月15日に同島の南東部の浅瀬を航行しているときにアメリカ軍に発見され鹵獲されたものです。
「甲標的」は敵地攻撃だけでなく、拠点防御のための兵器としても使われています。1944年にはフィリピンのセブ島周辺に拠点をつくり、そこから出撃して狭い水道内で船団部隊を襲撃。約4か月の短い期間でアメリカ海軍の艦艇17隻を撃沈(日本海軍のみの報告、米軍側記録では確認できず)したと言われています。
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グアムの太平洋戦争記念館ビジターセンターに保存・展示されている「甲標的」の展示パネル。写真に写っている座礁している艦は、グアムではなくハワイで撮影されたもの(布留川 司撮影)。
一定の戦果を挙げた「甲標的」でしたが、その性能不足は明らかであり、旧日本海軍は改良型として「蛟龍(こうりゅう)」を開発しました。「甲標的」を大型化して発電用のエンジンを搭載することで航続距離が伸びているのが特徴です。しかし、開発された1944年は太平洋戦争末期で本土決戦が現実的になった頃であり、「蛟龍」も日本周辺の海域で進攻してくるアメリカ海軍の艦艇を迎撃することを想定していました。
また、より確実な戦果を挙げるため、魚雷自体に人を乗せた特攻兵器「回天(かいてん)」も開発されました。こちらは乗員が乗ったまま体当たりする潜水艇で、このような人命損失が前提の兵器が開発されたのは戦争末期の敗色濃厚な機運が一番の理由ですが、「甲標的」の片道攻撃に近い運用によって、当時の潜水艦の関係者が体当たり攻撃を現実的な運用方法として考慮していたことも大いに関係していると言われています。
現在のグアム島は、美しいビーチが広がる平和な観光地ですが、太平洋戦争中は近傍のサイパン島やテニアン島などとともに激戦が繰り広げられた地です。また島内にはアメリカ空軍の基地や海軍の拠点が今もあり、「甲標的」だけでなく太平洋戦争中の戦跡がいくつも残っています。
もしグアムを訪れる機会があれば、こうした場所を巡り、一時でも過去の歴史に触れてみるのも良いかもしれません。