救助隊が語る“奇跡の救出”の裏側…中越地震発生から92時間後に2歳男児救出 壮絶な現場で一体何が?「奇跡が起きた」

2004年10月23日に発生した中越地震。68人が犠牲となったこの地震で、発生から92時間ぶりに当時2歳の男の子が救出され、多くのメディアが「奇跡の救出」として報じた。奇跡の救出劇の裏側には何があったのか…捜索に当たった救助隊が当時について語った。
最大震度7、マグニチュード6.8を観測した中越地震。道路は大きく陥没し、被災した住宅は12万棟以上…さらに、全国で初めて新幹線が脱線。余震も相次ぎ、犠牲者は68人に上った。そして、この地震で強い印象を残したのが、当時2歳の男の子が92時間ぶりに助け出された「奇跡の救出」だ。当時、崩落した現場は道路が整備され、メモリアルパークとなっている。あの日、この場所で何があったのか…。当時、長岡消防署長だった恩田敏元さんは、土砂崩れの一報は震災当日にあったと明かす。「震災直後に妙見町の近くの人から119番があって、『川に車が落ちている』ということで救急要請があった」辺りが暗い中、現場では道路が寸断され、車も巻き込まれる中、消防隊によって3人が助け出された。しかし、「余震が多い中、サーチライトを使ってくまなく捜索しても発見できなかった」と恩田さんが振り返るように、相次ぐ余震に状況も悪く、これ以上の被害を把握することはできなかった。
そして、発生から3日目、事態は急転する。県警が行方不明になっていた親子3人が乗る車を見つけたのだ。応援要請を受け、現地に入っていた特別救助隊の隊長・中川和行さんもすぐに現場に向かった。「道路が全部土砂に埋まっていて、なかなかそこまでは行けないという状況だった」崩れた土砂で簡単に入ることはできず、車は土砂や岩の中に埋まっていた。恩田さんは「暗くて余震も多くあり、すぐに本格的捜索に入るのは、なかなか難しいということになって…」と振り返る。結果、この日の捜索を断念…恩田さんは対策本部として、中川さんは救助隊として翌日の朝を迎えた。この時も、中川さんは親子3人の生存を諦めていなかった。「自分たちの目で確認するまで諦めないという気持ちで、絶対助けてやるという思いで、そういう気持ちで現場に入った」
中越地震発生4日目でも相次ぐ余震。二次災害の恐れもあることから、車周辺での活動は東京消防庁のハイパーレスキュー隊と長野県からの緊急援助隊のみに制限。中川さんは交代要員として崖の下で待機していた。土砂崩れの予兆を見るため、土木研究所の職員が常時監視する中、隊員にはこんな指令が…。「監視のほうから連絡が来たら、下りてくることが大変なので、横に逃げるか、川に飛び込めと」隊員がライフジャケットを着用しているのはこのためだった。すでに、発生から4日。生死を分けるタイムリミットと言われる“72時間”は過ぎていた。重機が入れないため、スコップなど手作業で土砂や岩を取り除く。すると、中川さんの無線に…「『うめき声のような声が聞こえた』ということで、そういう状況が聞き取れた」この瞬間、現場の空気が変わったという。「待機している人間も、自分たちも早くそこに行って何かできないかという気持ちで顔の色とか変わっていた」
当時の様子を記録していた東京消防庁の映像には「待っててね~、待っててね~」と声をかけながら懸命に活動する隊員の姿が映っていた。そして、当時2歳だった男の子が92時間ぶりに救出されたのだ。恩田さんは「非常にうれしくて、気持ちが高ぶるというかそういう感じだった。奇跡が起きたかなと」と話す。幼い命が隊員によって救助される中、中川さんも男の子を抱きかかえた。「助かってよかった。2歳、本当に小さいお子さんが4日経っても生きていてよかったと、すごく感動して。救助隊をやっていてよかったと思った」「何としても助けたい…」あの時、現場にいた全員の思いが奇跡の救出につながったのだ。その一方で、2人は救えた命よりも救えなかった命への後悔もある。その救えなかった命を救うために…この教訓を伝え続ける。

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