左半身まひの女性ファッションデザイナー「気持ち次第で未来は変えられる」――どん底乗り越えた母との絆

「パリ・パラリンピックでは、日本選手団が大活躍でしたね。スポーツ好きの私は、チャンスがあれば、パラアーチェリーにチャレンジしたい」
そう語るのは、埼玉県川口市で靴ブランドを手がける「LUYL(ライル)」代表取締役社長の布施田祥子さん(48)。
今大会では、競技だけでなく、洗練されたフォルムで障害のある選手たちを支える、最新鋭の義足や義手にも注目が集まった。
「しかし、現実に目を向けると、そうではありません。足に障害があり、装具を付けている人たちがふだん履く靴は『デザインがダサい』『痛くて履きにくい』というものが多いのです」
布施田さんは「障害があっても、足元のおしゃれを諦めたくない」との思いから、歩行機能を補う下肢装具を付けた人も履ける靴のブランドを7年前に立ち上げた。
自身も左手足にまひがあり、取材当日は、左膝下に固定された装具の上に、自ら手がけたスタイリッシュなパンプスを履いていた。
ブランドの試着会には日本全国から多くの人が集まる。8月初旬、川口駅近くにあるライルのオフィスでの試着会に訪れたのは、東京都北区在住の文子さん(61)。
「2年前に多発性硬化症を患って以来、装具を使い歩行しています。コロナ禍が明け外出の機会も増えましたが、“どうせ新しい服を買ってもスニーカーだし”と諦めかけていたとき、ライルの靴を知りました。えっ、足に障害があっても靴を選べるんだって」
まずは布施田さんから、ふだん着用している装具の形状などを聞き取るカウンセリングがある。細かな確認は30分以上にも及ぶ。4つのラインナップのなかから文子さんが試着に選んだのは、左右それぞれの足サイズに合わせて注文できるパンプス“オリノ”と、ストラップにマジックテープを使用したサンダルの“マカニ”だ。
「パンプスは、左足のほうが装具に引っかかる感じかな」
少し緊張気味に言う文子さんに、布施田さんは、 「ぴったりしすぎると痛くなることもあるので、いろんなサイズを試してみてください」
そう言いながら、器用に右手だけでメジャーを使って計測していく。
たっぷり2時間近くかけ試着し、オーダーを終えた文子さん。
「洋服を選んだ結果スニーカーになるのと、最初からスニーカーしか選択肢がないのとでは、まったく違いますよね。
私は60代だし、足も悪くして、もうおしゃれはいいやと思っていましたが、やっぱり、きれいな服や靴を身につけると気持ちが上がりますね。靴のオーダー自体が初めての体験なので、今、久々にワクワクしてます!」
すっかり表情の明るくなった文子さんを送り出した布施田さんは、 「皆さんが新しい靴を選んで笑顔になるたびに続けてきてよかったと思うし、つくづく、靴って何だろう、と考えてしまうんです」
30代半ばで左半身まひ、続いてオストメイト(人工肛門)生活となりながら、常に「今、自分がやれるベスト」を考え、行動してきた布施田さん。そういえば、パラリンピックの話題になったとき、こんなことも話していた。
「パラアスリートの活躍を見て、多くの人が『才能ある人だからできたんだ』とよく言います。私の起業も、『前向きな布施田さんだから実現したんですね』と。
でも私は、その考え方は違うと思うんです。障害のあるなしにかかわらず、誰もがいろんな場面でチャレンジする機会に出合っているはず。それを自らできない理由をつけて諦めてしまうのは、本当にもったいない」
ふだんの装いも実におしゃれで、いつも明るく前向きな布施田さん。そんな彼女がオリジナルの靴を作ろうと思うまでには、死をも考えたどん底の日々があった。
■海外ファッション大好き!幼少期から、やりたいことは全部やる子だった
「母方の祖父が、荒川区の熊野前商店街で手芸用品と和装小物の店を営んでいました。父は会社員、母は着付け師で祖父の店も手伝ったり。私も、その下町で育ちました。活発でよく笑う女の子でした」
布施田さんは、1975年10月26日、東京都生まれ。地元の公立の小・中学校では、ダンス、バドミントン、卓球、剣道と多くのスポーツをこなしていた。
「その後、関東国際高校を選んだのは、英語教育で有名だったから。1つ上の姉の影響で、アメリカのドラマ『ビバリーヒルズ高校白書』や『ファッション通信』を見て、海外生活に憧れていました」
高校卒業後は、神田外語学院へ。
「とにかく英語のスキルを磨きたかった。周囲には“とりあえず四大”という風潮もありましたが、私には、目的もなく過ごすのはまったくの無駄に思えて。こう考えるのは、病気の存在が大きかったと思います。元気なときには時間をフルに活用したいという思いが無意識にできていたんですね」
最初の体の異変は、10歳で発症した十二指腸潰瘍だった。
「以来、原因不明の腹痛に悩むことになります。といっても、30分から1時間ほどで痛みは治まり、検査も異常なし。いつからか、痛みを我慢するのが当たり前に。 でも、18歳のときに腸炎で最初の入院となり、このせいでグアムへの卒業旅行も、卒業式にも出られませんでした。翌年からは、潰瘍性大腸炎でステロイドを服用するようにもなりました」
仕事は専門学校で学んだビジネス英語を生かし、イザベル マランの日本代理店などに勤めた。
「ファッション好きというのは、56年着付け師をしている母の影響ですね。特に靴が大好きで、海外旅行に行くたび10足以上買うほど。 ただ持病があったせいで、社会人になっても、ほぼ毎年、1~2カ月の入院生活を送るようになります。やがて正社員は難しいとわかり、ファッションに特化した派遣会社に登録して、伊勢丹で販売員をしていました。同い年の夫と出会ったのも、この伊勢丹勤務のときでした」
そうして2003年2月に、広告代理店勤務の夫と結婚。その後36歳で出産するが、その入院中、人生を一変させる出来事に見舞われる。
■「何かを恨むより、娘を抱いてあげて」母の言葉が、寝たきりの危機を救った
2011年8月9日、待望の長女が誕生。その出産から8日目のこと。
「深夜の0時ごろ目が覚めて『ミルクの時間だ』と思い、ベッドから出て歩くと、足がもつれました。嫌な感じがして、ナースステーションに寄って赤ちゃんを連れてきてもらうように頼んだのですが……。だんだん左半身が冷たくなってきて、やがて意識を失うんです」
大静脈血栓症と脳出血の同時併発だった。そのまま寝たきりで、集中治療室で過ごすこと12日間。ようやく目覚めて翌月に一般病棟に移ると、主治医から告知が。
「左手足を動かすのは、もう難しいです。起きられてリハビリをしても、一生、車いす生活や寝たきりの可能性もあります」
この先、ずっと人の手を借りて生きていかないといけないんだと茫然とする布施田さんに、母親のきみ子さん(78)が語りかける。
「死んだわけじゃないんだから。何より、赤ちゃんが無事に生まれたじゃないの。何かを恨んで暮らすことに時間を費やすより、一日も早く元気になって、娘を抱いてあげることが、あの子にとっても、母親となったあなたにとっても、いちばん幸せなことだよ」
当時を思い出したのか、それまでずっと快活な口調で取材に答えていたのが突然、両の目から涙がこぼれ落ちた。この母親の言葉に救われた、とふり返る布施田さん。さらに、
「実は倒れる前、5カ月後の嵐のコンサートのチケットが取れていたんです。それも初のアリーナ席で。2008年から現在まで16年、ファンクラブに入っているくらいです。
私が意識不明のときも、夫が嵐の曲をベッドの枕元でかけながら、名前を呼び続けていてくれたほどでした」
主治医にも、こう告げていた。
「年明けの嵐のライブに行きたいので、それまでに歩けるようにしてください!」
懸命なリハビリを行い、ナゴヤドームでのコンサート観賞が、1泊2日の外出許可も出て実現した。
「私は車いすユーザーになっていたので、当日は友人に付き添われて同じくアリーナのバリアフリー席で観賞しました。ライブはもう、チョー最高でした」
このライブから2カ月後、全8カ月間の入院生活を経て退院。同時に、左半身まひの状態での乳児の子育てが始まる。
「入院中に、家事に加えて子育てに向けた作業療法も始めていました。ミルクをあげたあとにゲップさせたり、抱っこしたり、オムツを替えたり……すべて右手中心です。どうしても一人ではできない赤ちゃんのお風呂だけは、夫に手伝ってもらいましたが」
母親として、娘の保育園の送り迎えも自分でやりたかった。
「下肢装具を装着して、車いすなしでの歩行練習もしました。退院前から、リハビリの先生と保育園までの道をバギーを押しながら歩いたり。当時の私の体で往復約50分の道のりですから、結果的にいいリハビリになったと思います。
できないことを嘆くのではなく、どうすれば片手でもできるのかを考えて生活しました」
退院後の早い時期から、大好きな趣味も再開した。
「作業療法士の先生から『好きなこともリハビリになる』と聞き、またゴルフもやりたいと思ったんです。なので、ふだんの歯磨きをしながらでも、体重移動の練習をするなどしていましたね」 娘の成長も実感しながら充実した日々を送っていた’13年秋だった。38歳のとき、10代から患っていた持病の潰瘍性大腸炎が再び悪化。
「痛い、眠れない、食べられないで、体重も1年半で13キロ減りました。またあのステロイド生活に戻るのかと、うつ状態に。
何より悩んだのは、2歳の娘のこと。私は30分おきにトイレに駆け込むような状態でしたが、娘はそこまで後を追って付いてくるんです。この、いちばん母親を必要とする時期のわが子と、入院して離れたくないということが常に頭にあり、食事療法などで何とかしのいでいたんです」
このママの頑張りが結果的に、病状をさらに悪化させてしまう。
「ちょうどオムツ離れの時期だった娘がおもらしして、心身疲れ果てていた私は、つい八つ当たりしてしまいました。自己嫌悪に陥り、この出来事がきっかけで、入院を決断しました」
【後編】48歳、左半身まひの女性ファッションデザイナーが挑む「障がい者の人生を前に進める」靴づくりへ続く
(取材・文:堀ノ内雅一)

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