アメリカで最も活躍が知られる旧日本海軍の戦艦は「大和」ではなく「金剛」です。高速を武器に、ガダルカナル島砲撃やサマール沖海戦でアメリカ軍の脅威となりました、どんな戦艦だったのでしょうか。
1913(大正2)年に就役した旧日本海軍の戦艦「金剛」は、太平洋戦争に参加した日本の戦艦の中で最も旧式ですが、最も活躍した武勲艦でもあります。
日本を代表する戦艦=「大和」じゃない!? アメリカで最も有名…の画像はこちら >>旧日本海軍の金剛型戦艦4隻をとらえた写真(画像:アメリカ海軍)。
1904(明治37)年から戦われた日露戦争において、日本の大型かつ高速の装甲巡洋艦は、通商路保護と艦隊決戦で戦果をあげました。これを受けて、1907(明治40)年に世界で初めて戦艦と同じ30.5cm主砲を備えた筑波型装甲巡洋艦が建造されます。
その動きを横目で見ていた当時同盟国だったイギリスは、30.5cm砲塔を従来の2基から5基に増やした戦艦「ドレッドノート」の装甲巡洋艦版「インヴィンシブル」を、1908(明治41)年に就役させました。
「インヴィンシブル」のスペックは、30.5cm連装砲4基搭載、速力25.5ノット(47.2km/h)で「筑波」(30.5cm連装砲2基搭載、速力21.1ノット〈39.1km/h〉)を上回り、新艦種「巡洋戦艦」を名乗ります。
1906(明治39)年に「インヴィンシブル」の情報を得た日本は装甲巡洋艦計画を中止し、30.5cm砲8門搭載、速力25ノット(46.3km/h)の巡洋戦艦を計画します。しかし、当時の日本の大砲・装甲・機関の技術は不十分で、自力建造は不可能でした。そうしたことから、同盟国イギリスより技術導入を行うこととなったのです。
日本はイギリスへ、30.5cm砲12門を搭載し、25ノットで走れる装甲巡洋艦を依頼します。この計画は1910(明治43)年に30.5cm砲10門となり、3連装砲の採用が検討されます。しかし、搭載予定の30.5cm50口径砲は砲身命数(砲身の寿命)が少なく、砲弾の散布界も悪いため、日本側は34.3cm砲か35.6cm砲の採用をイギリスに働きかけます。
1910年に35.6cm砲の採用が決まりますが、日本は主砲変更の際に、建造を担当したイギリスのヴィッカース社から「次期主力戦艦(クィーン・エリザベス級)用の38.1cm砲を採用してはどうか」と提案され、断っています。もしここで38.1cm砲を採用していたら、金剛型は後のイギリス巡洋戦艦「フッド」に匹敵する世界一の大火力巡洋戦艦になっていたでしょう。
ただし、38.1cm砲を搭載した場合、「金剛」の完成は1年半~2年遅れとなり、史実では完成直後に第一次世界大戦が始まったことから、建造中にイギリスに接収されたと思われます。「金剛」が発端で、日本国内で建造される同型艦「榛名」「比叡」「霧島」も同様に遅れ、金剛型の技術導入で建造された扶桑型・伊勢型戦艦の建造も遅延し、ワシントン海軍軍縮条約締結時に長門型戦艦が存在せず、外交上不利になったかもしれません。
こうして完成した「金剛」は、常備排水量2万6330t、35.6cm45口径連装砲4基8門、最大速力27.5ノット(50.9km/h)、舷側装甲203mm、水平装甲合計95mmという性能で、35.6cm主砲は就役当時世界最大でした。なお、設計は同じイギリス式のオスマン帝国向け戦艦「レシャド5世」(イギリスに接収され「エリン」に変更)の巡洋戦艦版で、「金剛」と「エリン」は艦首から艦橋あたりまでが酷似しています。
「榛名」「比叡」「霧島」をあわせた金剛型4隻を有する第三戦隊は当時、世界最強の巡洋戦艦部隊でした。第一次世界大戦を受け、イギリスは金剛型の貸与、あるいは日本側乗員による欧州戦線への参戦を求めますが、日本側はこれを断り、日英関係悪化の要因となります。そして同じイギリス式設計の巡洋戦艦がドイツ巡洋戦艦に撃沈され、特に遠距離砲戦で水平装甲の防御力不足が問題視されました。
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1917年から1920年のあいだに撮影された巡洋戦艦時代の「金剛」。竣工時のオリジナルの姿(画像:アメリカ海軍)。
日本は1924(大正13)年より金剛型の改装を行い、水平装甲の増加や主砲仰角の増加を行いました。1930(昭和5)年のロンドン海軍軍縮条約後に、金剛型は水平装甲を増加したことで、速力が25ノット(46.3km/h)に低下したため「戦艦」に改められています。
軍縮条約で舷側装甲の強化は認められないので、厚さ203mmという戦艦としては脆弱な装甲となりました。なお、同時期にイギリスのレナウン級は、特例で舷側装甲を152mmから229mmへ増加させています。同じ英国式設計艦を持つ日本が「金剛型にも装甲増加が認められるべき」と主張しなかったのは惜しまれます。
軍縮条約で「比叡」が練習戦艦に改装され、舷側装甲と第3主砲塔撤去、機関減少で公称18ノット(33.3km/h)となりましたが、のちに昭和天皇のお召艦となっています。艦齢が古い金剛型は、軍縮条約で代替艦が建造される予定でしたが、条約破棄でお蔵入りに。練習戦艦「比叡」も含めて第2次改装が行われます。
第2次改装では主砲仰角の引き上げと91式徹甲弾の使用で、主砲射程が35.5kmとなり、砲身動力も強化したことで実用的な主砲全門の斉発(一斉射撃)が可能となります。舷側装甲も、裏にある水平装甲傾斜部に70~102mmが貼り足され、戦艦主砲には不足であるものの強化されました。
水平装甲は弾薬庫が102~127mm、機関部に76mmが貼り足され、弾火薬庫の水平装甲は格上の40.6cm砲に対しても有効な防御力を持ちました。機関も換装され、最大速力は30ノット(55.6km/h)となります。射撃指揮装置なども換装され、特に「比叡」は大和型戦艦のテストベッドとして、同型艦と雰囲気が異なる艦橋となっています。
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1944年6月のマリアナ沖海戦で、アメリカ海軍の空母艦載機から猛攻を受ける戦艦「金剛」(画像:アメリカ海軍)。
太平洋戦争へ突入すると、旧日本海軍は金剛型を、空母の護衛やガダルカナル島の飛行場砲撃に使用します。アメリカ側は、速力の速い新型戦艦を空母の護衛に付け、万が一の水上遭遇戦で不利にならないように対応しました。アメリカ側の資料では、金剛型の速力を「恐らく30ノット(55.6km/h)の発揮が可能」と注記して、その高速による夜戦投入を警戒しました。
アメリカでは「金剛」は、「ガダルカナル島を砲撃して海兵隊を絶望させ、サマール沖海戦で多くの被害を与えた艦」と認識されており、「YAMATO」(大和)ではなく「KONGO」が日本戦艦を代表する存在と評価されています。