第2次世界大戦でジェット機を実戦に投入したのはドイツとイギリスだけでした。特にドイツは連合国に対して開発で先行。プロペラの付いたレシプロ機全盛の時代、各国のジェット機開発はどんな状況だったのでしょうか。
第2次世界大戦の軍用機は、そのほとんどがプロペラの付いたレシプロ機です。戦後の軍用機はジェット機が主流になっていきますが、戦前はどのような状況だったのでしょうか。
「ジェット軍用機」WW2には早すぎた? 各国どんな状況だった…の画像はこちら >>戦後、アメリカ軍で飛行テストされるドイツ空軍のジェット戦闘機「Me262」(画像:アメリカ空軍)。
プロペラを使わずに飛行するジェット機、その最初のものは「サーモジェットエンジン」を搭載したルーマニアの「コアンダ=1910」でした。
これは、レシプロエンジンでコンプレッサーを駆動させ、圧縮した空気に燃料を供給し、それを燃焼させて推力を得るというもの。製造は、なんと人類が初めて航空機で空を飛んでから7年しか経っていない1910(明治43)年のことで、パリで行われた第2回国際航空博覧会にて展示されましたが、地上テスト中に炎上し、飛行することはかないませんでした。
その後1929(昭和4)年、イギリス空軍のフランク・ホイットルが遠心式ターボジェットエンジンの特許を出願し注目を集めますが、その時点では実用化しようという者は現れませんでした。
イタリアでは1931(昭和6)年、航空技術者セコンド・カンピニが航空省にジェット機の有用性に対するレポートを提出。翌年にジェットエンジン搭載のボートでデモンストレーションしたこともあり、1934(昭和9)年よりジェット機開発が始まります。しかし1940(昭和15)年8月に初飛行した「カプロニ・カンピニN.1」は、最高速度375km/hの低性能であり、1942(昭和17)年に開発を放棄されています。
そうしたなか、戦前にジェット機を実現した国のひとつがドイツです。大学院生のオハインが、1934年に自費でジェットエンジン開発を始め、1936(昭和11)年にハインケル社の社長エルンストにそれを見せたことで、同社においてジェット機開発が始まります。
ハイケンル社の実験機「He178」は1939(昭和14)年8月に、世界初のターボジェットエンジンを搭載した機体として初飛行。旧日本海軍の零式艦上戦闘機の初飛行が同年4月ですから、ほぼ同世代といえます。ドイツの科学力の高さを示す実例でもありましょう。
ただ、「He178」は予定していた高速度700km/hを達成できず、600km/hに留まったため、レシプロ機に対する性能優位を示せませんでした。ジェット機の将来性を認めたドイツ航空省は、ハインケル社に次モデルとなるジェット戦闘機「He280」の開発を命じます。航空省は同時に、他社にもターボジェットエンジン開発を打診しています。
「He280」は1941(昭和16)年3月に初飛行しました。射出座席の搭載など、新機軸も多く採用されていましたが、エンジンの稼働保証時間が1時間と信頼性に乏しく、最高速度650km/hも高性能とはいえませんでした。
そこで、翌年7月に初飛行した後発の「Me262」が採用されることになります。「Me262」は最高速度870km/hを発揮し、同世代のレシプロ戦闘機より150km/h以上優速と、圧倒的な高性能でした。30mm機銃4門も重火力でした。
「Me262」はドイツ空軍のガーランド少将が「天使が後押ししているようだ」と述べるなど、高い評価を得ます。独裁者のヒトラーは「Me262」を見て「爆弾は搭載できるのか」と質問。可能と聞くと「高速爆撃機」としての生産を命じます。
1944(昭和19)年6月のノルマンディー上陸作戦から実戦投入された「Me262」でしたが、爆撃機としての爆撃照準器はなく、250kg爆弾2発を搭載すると速度が低下。レシプロ戦闘機でも迎撃できる速度に低下したことで、戦果は乏しいものでした。
「Me262」が戦闘機として、連合軍に脅威を与えたのは1945(昭和20)年に入ってからで、高速爆撃機にして浪費した時間がなければ、より活躍しただろうと評価されています。
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日本初のジェット機として開発された「橘花」(画像:SDASM Archives)。
さて、日本もジェットエンジンの独自開発は行っていたものの、実用化には遠い状態でした。ドイツから「Me262」の情報を得たものの、技術資料やエンジンを積んで日本へ向かっていた潜水艦が途中で撃沈されたこともあり、大半が独自開発となりました。国産の「ネ20」エンジンを搭載したジェット機「橘花」が1945年8月に初飛行したものの、戦果を挙げることなく終戦になります。
一方、イギリスは1939年に、ホイットルのターボジェットエンジンを搭載した航空機の開発を、グロスター社に依頼します。試験機「E.28/39」は1941年4月に完成し、5月に初飛行しました。試験機が優れた上昇力と高い上昇限度を示したこともあり、実用機である「グロスター サンダーボルト」の開発が始まります。
開発は搭載エンジンW.2のトラブルもあって遅延しますが、「グロスター サンダーボルト」は1943(昭和18)年3月に初飛行します。ただ、すでにイギリス空軍がアメリカの戦闘機P-47「サンダーボルト」を採用していたため、グロスター社の「サンダーボルト」は「ミーティア」に改められました。
「ミーティア」は1944年7月より実戦投入されますが、レシプロ戦闘機に対する性能の優位性が少ないうえに航続力も低いため、イギリス本土防空の任務に就きました。
なお「ミーティア」初飛行と時を同じくして、イギリスでは初めての単発ジェット機である「デ・ハビランド バンパイア」も初飛行しています。テスト結果は良好でしたが、既存の機体生産が優先されたこともあり、実戦配備されたのは大戦後の1946(昭和21)年からでした。ちなみに1945年12月には、空母「オーシャン」への着艦に成功しており、「世界で初めて空母に着艦したジェット機」としても知られています。
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イギリス本土を飛行するイギリス空軍の「ミーティア」。写真は試作量産型F.1(画像:イギリス帝国戦争博物館)。
アメリカはどうでしょうか。1941年にジェット戦闘機開発を始めると、1942年10月には試作機「YP-59」を初飛行させます。しかし最高速度664km/hと見るべきところがなく、「P-59」として採用はされたものの、大量生産には至りませんでした。
続けて翌年6月よりジェット戦闘機「P-80」の開発を始め、1944年1月には早くも試作機の初飛行に成功。1945年2月より量産型の配備を始めましたが、実戦を経験する前に終戦を迎えています。
結果として、ジェット機のレシプロ機に対する性能優位を実戦で発揮したのはドイツだけでした。戦後、「Me262」を入手した連合軍は「F-86」(アメリカ)や「Su-9」(ソ連)の技術資料とし、その後のジェット機開発の礎としています。