フリーターや“子ども部屋おじさん”も参加! 職業も性別も多士済々、全国から義勇兵が続々…「今、自分たちにできることを!」人気バンド元メンバーの姿も〈密着・能登ボランティア〉

元日の夕刻、最大震度7の巨大地震に見舞われた石川県能登地方。被災地がその甚大な被害から立ち直るために必要なのがボランティアの力だ。震災発生から一ヵ月を迎え、獅子奮迅の働きを見せる彼らを追った。
取材班が今回密着したのは、支援団体合同チーム「TEAM JAPAN」。これまでにも2011年の東日本大震災を皮切りに、広島豪雨災害や熊本大震災、さらに毎年のように起こる台風や豪雨など12カ所の災害支援に、延べ3万4000人のボランティアを送り込んできた。能登半島地震では発生翌日から被災地入りし、被害が大きかった輪島市の南に位置する羽咋市の廃業した民宿を拠点に、避難所への支援物資の運搬や炊き出しなどに従事。現地活動の中心的存在となっている「カーマ」こと釜谷甲気(39)さんは、「震災から1カ月が経ち、被災者の方たちが求めるニーズも変わってきた」とこの期間を振り返った。
カーマこと釜屋甲気さん
「当団体は1月2日から被災地でボランティア活動を続けていますが、1ヶ月が過ぎて、被災者の方たちが求める支援のニーズが変わってきたことを痛感しています。当初は、市街地にある避難所では火が使えないのでカップラーメンやレトルトカレーなどのインスタント食品を配布し、火を起こして自分たちで炊き出しを行なっている集落の避難所には、野菜や調味料などを配布していました。しかし支援物資がひととおり行き届いた今では、長引く避難所生活に疲れを感じている方たちも多い。そこで避難所の外に仮設のお風呂を作ったり、リラクゼーションマッサージを行うようになりました」
マッサージをするスタッフ(「TEAM JAPAN」提供)
震災から1カ月が経ち、ボランティア活動の中心が「モノ」から「サービス」へと移行しつつあるという。「避難所に支援物資を取りに行くのが難しいお年寄りの自宅に、物資を届けたりもしていますね。炊き出しも定期的に行なっていて、これまでもクリームシチューやお好み焼きを作ったりしてきました。こうした活動の中で被災者の方たちと話していくうちに、新たな問題点やニーズが浮上してくるので、それをミーティングで共有して活動内容に反映していくといった感じです。今後も『今、自分たちにできることを!』を合言葉に、誠意いっぱい活動させていただきます」
今回の「TEAM JAPAN」の参加者はすでに延べ40人を超え、美容師やメイクアップアーティスト、大工やデザイナーなど職業も性別も多士済々、かつては玩具の修理士だった74歳の男性もいたという。その中で、1月8日からボランティアに加わった「カズト」こと佐々木一人(32)さんは、知人の農業を手伝いながら、東京都世田谷区にある祖父の自宅でニワトリの世話をしながら暮らすという自由気ままな生活を送っていた。
カズトさんとニワトリ(「TEAM JAPAN」提供)
「正月に埼玉県川越市の実家に帰省していたときにニュースで能登震災を知って、自分が呼ばれているような気がしたんです。テレビの前で『これは行かなきゃ!』という思いに駆られて、SNSで同じ思いを持った友人に『オレもボランティア行かせてくれ!』と連絡をとりました。その友人と車に同乗して被災地まで駆けつけ、8日に『TEAM JAPAN』に参加しました。私は大学卒業後は職を転々として、地元の工場を半年で辞めてからは、携帯ショップで販売員として6年ほど働いていたのですが、29歳になるタイミングで『オレの人生このままでいいのか?』とフリーターになり、箱根のレストランでウェイターをしていました。しかし、昨年11月末にそこも辞めて、知人の農業を手伝いながら、おじいちゃんの家でニワトリの世話をしながら暮らしていたんです」ボランティア活動は初めての経験だという。「避難所への支援物資の運搬や炊き出しの際も、できるだけ被災者の方たちとコミュニケーションを取ってニーズを汲み取ろうと意識しています。また、いろいろなボランティアから刺激をもらってきました。長野県の小学生3人組は近所でシフォンケーキを売って、そのお金を『被災地支援のために』と届けに来てくれました。沖縄の中学生たちも『自分たちができることはなにか?』という思いで飛行機と電車を乗り継いで、メッセージ入りのカイロを避難所に配ってくれました。そうした思いも引き継ぎ、これからも被災者の方たちをサポートしていきたいと思ってます」
物資を配るボランティアのスタッフ
高知県から駆けつけたヤマちゃん(51)も、かつては職を転々としていたがコロナ以降は仕事にも就かず、実家で親に「パラサイト」していた、いわゆる“こども部屋おじさん”だ。「若いときは建設業や、いろいろな仕事をやっていました。バイクが好きで各地を巡っては短期バイトで食いつなぐ自由な暮らしをしていて。最後は北海道のテーマパークで監視員をしていました。でもコロナ以降は働かず親に養ってもらっていた状態で、元日も実家でゴロゴロしながら過ごしていたんですが、能登地震のニュースを見て俺も力になりたいって思ったんです。それで1月中旬に高知県から高速バスと電車を乗り継いで金沢駅まで来て、その日は駅の近くにあるベンチで1泊しました」
ヒッチハイクで能登入りしたヤマちゃん
ヤマちゃんは道を尋ねられたボランティア志願のオーストラリア人男性と仲よくなり、ともに輪島を目指すことになった。「車を使うことは、いろいろな支援車両が向かう邪魔にもなるという思いもあったので歩いて行くつもりでしたが、最終的に駅で知りあったオーストラリア人のアイデアに便乗し、近くの店でもらってきた段ボールの切れ端に『門前輪島』と書いてヒッチハイクを始めました。それで知り合ったのが『カズト』で、それからここでボランティアをやっています。誰かにうれしいと言ってもらえるのは、すごくやりがいがあります」
「TEAM JAPAN」はこの日、羽咋市の拠点施設で焼いた「壷焼きイモ」を、避難所となっている公立穴水総合病院(穴水町川島)に運んだ。被災生活が長引いている70代の女性は、うれしそうに焼きイモをほおばった。「やっぱり火の通ったモノを食べられるのはうれしい、炊き出しはありがたいね。地震が起きてからは、火が使えないからサバの缶詰とかレトルトカレーくらいしか食べられなかったし、水がないからお米すら炊けない。そんな中で、これまで何度も炊き出しのボランティアが来てくれて、焼きそばやフランクフルト、カレーライスを食べさせてもらった。その中でもやっぱり、地震が起きてから初めて食べたごはんと梅干しの美味しさは忘れられない。ふだんの自分がどれだけ贅沢な暮らしをしていたか身に染みてわかったよね」
壷に吊るされたイモ
被災地には「TEAM JAPAN」とは別のボランティアたちも大勢いる。地震発生当初約500人の被災者が身を寄せ、今は約80人が避難している七尾市田津浜体育館で活動していたボランティアは、かつては人気ロックバンドのメンバーだった。NPO法人水守の郷・七ヶ宿の海藤節生理事長がその人だ。1976年に結成された「HOUND DOG」の初代ベーシストで、バンド脱退後は喫茶店の経営や土木作業員、国会議員秘書などさまざまな職を経て、2008年に仙台市でNPO法人を立ち上げ、環境保全活動にも取り組んできた。2011年の東日本大震災では被災者でもあり、災害ボランティアも経験済みだ。
海藤節生理事長
「私自身はふだんは宮城県の七ヶ宿町という、少子高齢化が進み、人口が1200人を切ってしまった山村過疎地で活動していて、小中学校や大学に出向いてボランティア講座や課題解決能力を身につけるような教育も行なっています。宮城県内や山形、新潟などの友達から物資が集まってきたので車に積んで七尾市に向かい、1月4日の朝に到着しました。まだこの辺はコンビニも開いていたり、買い物もできましたけど、穴水、能登、珠洲と回ったら全然状況が違ったので、七尾に置く予定で持ってきた物資を、珠洲市役所に飛び込みで提供しました」以降は豊富な経験を活かして、現場のコーディネーターや行政職員とも連携し、被災者により添った避難所運営の視点からボランティア活動に腐心している。ボランティア元年といわれた阪神淡路大震災から29年の月日が流れた。受け入れ側も含めて仕組みや手順は整ってきたが、「被災者の喜ぶ顔が見たい」という本質的な欲求が、時代を超えてボランティアを突き動かす。今日もどこかで無名の義勇兵たちが瓦礫と格闘しているに違いない。
取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班撮影/Soichiro Koriyama

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする