埼玉県の県道沿いにある豚骨ラーメン店「らーめん楓神(ふうじん)」。開業以来、独自の技術で継ぎ足し育ててきたとんこつスープは、クセになる味わいでファンも多い。同店店主・関根悟史さん(50)は、過去の事故の影響で視力が0.01以下と、ほとんど見えない状態にある。さらに、複数のヘルニアも抱える極限状態でラーメンをつくり続けている。壮絶な人生をおくりながらも、ラーメンに命を懸ける関根さんの思いを聞いた。
埼玉県北足立郡伊奈町。県道沿いにある店舗は昼どきになると常連客でいっぱいになる。埼玉ナンバーワン豚骨ラーメンとの呼び名も高い「らーめん楓神」の最大の魅力はその豚骨スープ。“呼び戻し”と呼ばれる手法で開業当初から20年、継ぎ足して守ってきた豚骨100パーセントのスープは、濃厚でありながらもスッキリとした味わいだ。
らーめん楓神
黒いタオルを右目を隠すように巻き、厨房で手際よく作業をこなす店主の関根さん。流れるような手さばきでラーメンを作っているが、実は視力がほとんどない。「分厚いすりガラス越しにものを見ているような感じですね。仕事をするときは、手の感覚とか、匂いを頼りにしています」関根さんは19歳の時に交通事故に遭い、右目を失明。左目の視力も0.01以下で、障がいの程度が最も重いとされる障害等級1級に認定されている。他にも、複数箇所のヘルニアにも悩まされているという。「頸椎から腰椎までのヘルニアが6ヶ所ある。炎症熱もずっと出ていて、平熱が38度くらい。事故後、身長は4センチ縮みました」
店主の関根悟史さん
そんな状態でも、朝の2~5時の間には店に来て、スープの仕込みをする生活を続けている。「うちでは3つの寸胴鍋を使うんです。左が営業用のスープで、右と真ん中の鍋は育てている段階。それぞれの鍋のスープを調合して大体4日かけて店で出すスープが完成する」濃度の異なる3つのスープをブレンドすることで、豚骨のうま味がしっかりしつつも、すっきりしたスープに仕上がるそう。「スープ作りって、ドライブみたいなもんです。火力全開で続けるので、止められない。あるタイミングを過ぎて、味が変わったらもう戻せない。だからいつエンジンブレーキをかけるかを考えながら仕込みをする」
「スタッフが育ってきてくれたおかげで、最近は夜の営業を任せることもあります。でも、スープの様子は必ず写真で送ってもらうようにしています。拡大読書機でスープの熟成度をチェックしてメールで指示を出す。僕の場合、メールを1文字打つにもすごく時間がかかるんで、めちゃめちゃ大変なんですけどね」日々の生活をラーメンに捧げる関根さん。ラーメン屋を始めたのは、交通事故で視力を失ったことがきっかけだった。「実は、もともとプロボクサーをしていたんですよ。ラーメン屋になるなんて全然考えてなかった」
小学校低学年のころに両親が離婚。その後、家に出入りするようになった男性からタバコの火を腕に押しつけられるなど日常的な暴力を受けていた。抵抗しても子供の力ではかなうはずもなく、行きどころのない悔しさや怒りを筋トレにぶつけるようになった。「小学校にあったプッシュアップバーで、毎日300回腕立て伏せをしていました。小学4年生くらいから学校にもほとんど行かなかった。暴走族の人に居酒屋につれていってもらうとか、そんな悪いことばっかりしていました」
体格のよさから、喧嘩の応援に駆り出されることも多かった。そんな日々を過ごすなかで、出会ったのがボクシングだった。「18歳のときかな、仲間たちから『悟史がボクシングやってるの見てーわ』って言われて。ボクシングジムに入って、その日から毎日10~20キロのランニングとダッシュ10本をルーティーンにしました」ボクシングジムに入ってすぐ、試合に出るはずだった選手がケガで欠場することに。その代わりとして、ウェイトが一緒だった関根さんが急遽試合に出場することになった。試合出場の3ヶ月前にプロ試験を受けて一発合格。その後はスーパーバンダム級の大会で2戦2勝。好成績を残し、新人王のトーナメント出場が決まっていた。
楓神のらーめん(850円)
「初めての試合は後楽園。会場の熱気がすごかった。ライトがめちゃめちゃ当たるから、暑くて頭がぼーっとしちゃうくらい。でも試合が始まると汗が抜けて、感覚が研ぎ澄まされていくんですよ」「当時から、自分は人に注目される人間だって思いがすごくあって。承認欲求も強いんですかね。試合に出るのが楽しかった」自分の居場所を見つけた。そんなふうに思えるようになった最中に起きたのが、交通事故。19歳のときだった。ボクシングの練習に向かうためバイクに乗っていた関根さんを、一時停止を無視したトラックがはねた。
事故で右目は失明、左目もほとんど見えない状態になった。さらに膝の骨折や、ヘルニアを発症。一時は、膝を曲げることもできず、歩けなくなるかもしれないと診断された。ボクシングは失明した時点でもう試合に出ることはできない。それでも、ボクシングができない現実が受け入れられず、その事実を隠して練習に励んだ。「足が治ったときに復帰できるように、手だけでも鍛えておこうと思って、車椅子でロードワークをしていました」
「車椅子で坂道を登ろうとしたら、お尻が重いから後転しちゃうんですよ。転んでいると、助けようとしてくれる人もいっぱいいたんですけど、当時は必死で。ありがたいけど、人の手は借りないって意地になって練習してました」現実を受け入れられず、目の治療を拒んで、バイトをしながらトレーニングに励む日々。リハビリで歩けるようにまではなったけれど、目の状態は悪化するばかりだった。「もう手術しないと無理だよって医者に言われて。このままだと左目の眼球が破裂するって言われて緊急手術をしました」「病院で、左目の手術が終わって退院するときに先生から障がい者になったことを伝えられた。仕事を続けるのも難しいし、ボクシングは二度とできないって言われたんです」病院に迎えにきてくれた妻に、「どうだった」と聞かれて、説明しようと口を開くと、涙が止まらなくなった。「2分くらいかな。なにもしゃべれなくなっちゃって。『ああ、俺ダサいな』って思って」
現在も複数種類の薬を服用している
「それでとっさに『俺、ケンカしたり、殴ったり、そんなことばっかりやってきたし、そろそろ人に喜ばれることをするよ。いま、ラーメンが流行ってるから、ラーメン屋やるわ。手伝ってくれたら好きな車と海外旅行をプレゼントするから』って言ったんです」ちょうどその日、妻が妊娠していることを知らされる。「すごい日ですよね。でも、子どもができたって聞いて、この子のためにも前向きにラーメン屋をやらなきゃなって思ったんです。息子は楓って名前なんですけど、店の名前も神様からの授かり物って意味で、楓神にしました」
ラーメン屋の出店を決意したものの、ラーメンづくりはまったくの未経験。しかも視力がほとんどない状況でのスタートだ。「まずは1週間、ラーメン屋のバイトに行ってひたすら野菜を切りました。ただ野菜を切ってるだけなんですけど、そこで匂いを学んだ。鍋の中のスープの匂いがどんなふうに変わっていくかとか、ラーメンのタレが沸いたときの匂いや沸くまでの時間を覚えた」その後、1ヶ月は店を借りて、毎日スープの研究を繰り返す日々。「開店までは1日16~22時間くらいスープと向き合ってひたすら勉強した。何回も味見して、この火力だとどんな沸き方になるかとか、時間で味がどう変わるかとかを確認する。寝る間もほとんどなかったですね」
スタッフにスープづくりの指導をする関根さん
「実は、俺と奥さんの誕生日と結婚記念日が7月16日で一緒なんです。店のオープン日もそれに合わせようと思って一生懸命頑張ったんですけど、微妙に間に合わなかった(笑)」そんなトラブルがありつつも、開店してからは濃厚な豚骨スープの味で一躍人気店に。さらに、関根さんの運動神経を活かした、厨房から替え玉を飛ばす「フライング替え玉」が話題を呼び、テレビなどでも紹介されるようになった。お店のローンも無事完済。妻に約束した海外旅行と車のプレゼントもした。しかし、左目の調子は日に日に悪くなる。平衡感覚がわからなくなり、歩くたびに転ぶように。厨房にも立てなくなり、2017年に別の会社に店を譲った。「せっかく手に入れたお店なのに、悔しかった。でも、リハビリをして絶対に帰ってこようって心に決めて、タネのスープは冷凍保存していました」
3年間は、障害雇用で会社に勤めながら、目の手術や、レーザー治療を受けた。平衡感覚を掴むため部屋の壁を伝って歩くトレーニングをしたり、文字を読み取る訓練も受けたり、なんとか店に立てるほどまで回復し、店に返り咲いた。店に立ってはいるものの、今も極限の状態は変わらない。事故の後遺症で身体中が痛く、炎症熱に悩まされることも多い。そんななか、厨房に立ち続けるのはなぜだろう。「子どもや家族にお金を残すためですかね。手段がこれしかない。パソコン仕事をやるにしても、パソコンが普及する前に事故にあっているから使い方もわからない。できたとしても月10万円程度しか稼げないから、家族5人を養えない」「でも、この仕事自体も好きなんです。ラーメンを作るのが好きというよりも、自分にしか伝えられないものを人に伝えていることが楽しいんだと思います。あとは、人が笑った顔が好きなんです。常連のお客さんが、僕が見えるところまで近づいてきておいしかったですって笑顔でいってくれる。そういうのがうれしいんだと思います」
家族と、お客さんの笑顔のため。関根さんは今日もラーメンを作り続けている。取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班