公開の道筋が具体的に示された。この遺構を残す意義は大きい。さらなる調査・検討を進め、できるだけ広い範囲の公開を実現してほしい。
首里城地下に眠る日本軍第32軍司令部壕を巡り、県が保存・公開基本計画の素案を示した。
壕は沖縄戦を指揮した32軍司令部が構築。全長約1キロに及ぶ洞窟陣地で、深い所では地下約30メートルに達する。
第1~5坑口・坑道があり、そのうち第5坑口と第5坑道の一部を2030年度に公開することが示された。
第5坑口は首里城正殿が完成予定の26年度中に遊歩道を整備して暫定公開する。
32軍はここから南部へ撤退した。その結果、南部に避難していた住民が米軍の無差別攻撃に巻き込まれ、犠牲者が一気に増えることになったのである。
26年度には、昨年度の試掘調査で場所が判明した第1坑口付近でも遊歩道を整備する。
同坑口自体は現時点では埋め戻して保存し、今後、全体像が明らかになれば新たな公開方法を検討するという。
首里城と32軍壕の関係性は深く一体的な公開が期待されてきた。
県の保存・公開検討委員会は第5坑口を25年度、第1坑口を26年度に先行公開するロードマップを示していた。
当初スケジュールより遅れてはいるものの、全面公開への着実な前進だ。
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司令官室など中枢機能が集まっていた第2、第3坑道は、安全性や地上の建物との関係など公開に多くの課題があるとして、内部に入らず見学する方法を引き続き検討することが示された。
壕の中枢では南部撤退をはじめ沖縄戦の方針が決められた。住民スパイ説の発信地で「沖縄語」の使用を禁止する命令が下された場所でもある。
ほかにも崩落などでいまだに内部に立ち入ることができない箇所がある。民有地内にある第4坑口・坑道の位置の詳細は把握できていない。
1990年代の大田昌秀県政時代には、本来の壕に沿って「公開坑道」を造り、展示場にする案もあった。
今後も壕の全体像を明らかにする調査を進めながら、さまざまな公開方法を検討してほしい。
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32軍壕の構築が始まったのは今からちょうど80年前の44年12月だ。
工事には兵士のほか多くの学徒や住民が駆り出された。
完成後は軍幹部を含め千人余が入ったが、それぞれが壕内でどんな役割を担っていたのか不明な部分もまだ多い。過去には壕の説明板から県が一方的に「慰安婦」や「住民虐殺」の言葉を削り批判を浴びた。
公開に先駆け2029年度には県立芸術大学の敷地内に、壕の全体像を示す展示施設も新設される。沖縄戦の実相を若い世代に伝える展示の在り方についても議論を始めたい。