2004年に発生した中越地震から10月23日で20年。甚大な被害を受けた被災地では20年前、復興に向け様々な決断を迫られました。それぞれの選択の先に待っていた被災地の今をシリーズでお伝えします。今回は全世帯が集団移転し、ふるさとを離れた小千谷市十二平です。
小千谷市に住む鈴木俊郎さん。毎朝、自ら運転し向かう場所があります。【鈴木俊郎さん】「20年経ってもずっと記憶が消えることはない。怖い思いをしたとか、寒い思いをしたとか」着いたのは、小千谷市東部の山あいに位置する十二平地区。ニシキゴイの世話のために通う鈴木さんは20年前までここで暮らしていました。いま、住宅は1棟もないこの場所には、一つの集落がありました。地元の人の言葉で十二平を表す「じょんでぇら」。周囲には、そこに自分たちの家があったことを証明する、屋号が記された石碑も建てられています。【鈴木俊郎さん】「将来、いつになってもこの場所は、“じょんでぇらのじろべえ”の家があったということを残すため、これを建てた」
【リポート(2004年)】「道路に大きく“SOS”と書かれているのが見えます。この周辺では、道路が土砂崩れなどによってなくなっています」20年前の中越地震で大きな被害を受けた十二平。11世帯41人が住んでいた住宅は全て全壊しました。集落に積もる深い雪は春になっても残り、中山間地の生活の再建に立ちはだかります。こうした中で集落が選んだ道は…【住民】「俺たちも年だし、何しろ復活…考えてもなかなか不可能」十二平集落は住民同士で話し合った結果、全世帯が“集団移転”することを決め、当時、集落の役員を務めていた鈴木さんたちは市に要望書を提出。集落から人がいなくなりました。
十二平集落が移転したのは、市街地方面に山を下り、約10km離れた、小千谷市三仏生地区です。大型スーパーの近くに宅地は整備され、土地の取得・整備、新たな住宅建設の補助など合わせて1億1000万円余りが投じられました。その新たな土地へと場所を移しても、集落の住民同士のつながりは残っています。【集団移転した鈴木恵子さん】「あそこでまた暮らすとなれば、田んぼも再生できないし、そうするには莫大な資金もいるだろうし」山での暮らしと比べ、買い物や通院にも不便しない街での生活。その一方で…【集団移転した鈴木ミユさん】「よく夢に見る。十二平に行って、山で山菜取りをするところをよく見る。ここ、いっぱい出ていたんだなと思って、あっち行ったり、こっち行ったり。そんな夢をよく見る」
20年が経っても未練が残る生まれ育ったふるさと。住民たちの葛藤について、当時、集団移転についての説明会を開くなど、行政の立場で関わった小千谷市職員の安達仁さんは次のように振り返ります。【小千谷市職員 安達仁さん】「自分の住んでいるところに愛着がもちろんあるので、子どもとか、自分たちの仕事とか、色んなことを考えながら、悩みながら判断されていたなと。地元から離れるというつらさを長時間にわたって話をされる方もいらっしゃった」「行政は集団移転を進めて、地域を切り裂こうとしているのか」仮設住宅での説明会では、そんな厳しい声がかけられることもありました。安達さんは担当が変わったのちに、市が十二平を含め、集団移転した地域に対し行ったアンケートの結果をどうしても見ることができていないといいます。【小千谷市職員 安達仁さん】「いま正解でも10年後は不正解かもしれない。移転しなきゃよかったとか、いわゆる後悔されているというのを見たくない」
何度も話し合いを重ね、最終的に全世帯が集団移転した十二平。鈴木さんを中心に「十二平を守る会」が立ち上げられ、集落の跡地に花を咲かせる取り組みなどに励んできましたが、時間の経過とともに活動は減り、いま集落があった場所を訪れる人はほとんどいません。【鈴木俊郎さん】「まあ、もっと荒れるでしょうね。これはしょうがない」ふるさとへの思いは胸に抱きながらも、いま鈴木さんは自らに言い聞かせるように、こう話します。【鈴木俊郎さん】「さんざん会合して、みんなで決めて集団移転した。元のところにこだわってばかりいれば、進歩もない。(移転して)20年になるけども、よかったということ」地域のあり方を大きく変える災害。それでも、ふるさとへの思いを変わらず持ち続けながら、考え抜いて選んだ道を進んでいく人の姿があります。