大人気おにぎり店「ぼんご」の女将・右近由美子さん 新潟の“家出少女”が東京で27歳年上の店主と結ばれるまで

一口噛みしめると素材の味が口の中に広がる。セットのお新香に箸を付け、絶妙な出汁加減の味噌汁をすする。つかの間、懐かしい記憶が脳裏をよぎる。
米、海苔、塩、そして数々の具材。おにぎりの材料はそれだけ。それなのになぜ、これほど豊かな味がするのだろう。
行列の絶えない大塚のおにぎり屋「ぼんご」。そのおにぎりには、約40年に渡って厨房に立ち続けてきた女将のドラマそのものが包み込まれていた――。

肉そぼろを煮る甘辛い匂いが漂ってくる。
朝7時、東京・大塚にある老舗おにぎり専門店『ぼんご』の半分閉まったシャッターをくぐって店内に入ると、スタッフが仕込みを始めていた。
2代目店主の右近由美子さん(72)は、カウンターや窓ガラスをゴシゴシと磨きながら、2週間先の予約注文の電話の対応をするなどせわしく働いていた。
そのいっぽうで店の前で開店を待つ客のために丸椅子を並べ、日傘や冷たいお茶を準備するなど気遣いも怠らない。
「’60年に、この店を始めた主人は戦後、進駐軍向けのバンドでドラマーをやっていたんです。アフリカの打楽器のボンゴは、音が遠くまで響き渡るとからと、店名を『ぼんご』にしたそうです」
店名に込めた願いどおり、平日にもかかわらず、9時の開店まで2時間もあるのに行列ができ始めた。この日の一番乗りは台風のため新幹線を利用できず、深夜の長距離バスで名古屋からやってきたという高山健矢さん(22)。
「5年ほど前にテレビ番組でぼんごのことを知りました。それからずっと食べたいと思っていて、去年、初任給で初めて来たんです」
海外からの観光客を含め、開店前には20人近くの行列ができた。食事どきとなると2時間待ちは当たり前、ときには4時間待ちになる人気店なのだ。
「お米は毎日80キロから85キロくらい炊きます。一日に作るおにぎりは1千200個から1千500個くらいですね。その日の天候や水の状態で、炊き方を変えます。
炊き上がって少し蒸らしてから握るのですが、お米は80度くらい。でも熱いなんて言っていられないから、指先が真っ赤になったりするんです」
右近さんが大きな炊飯器のふたを開けると、いきおいよく湯気が上がり、炊き立てのごはんの香りが広がる。
「まな板の前が私のステージ。もっとも輝ける場所なんです」
57種類ある色とりどりの具材を前に、巧みな手さばきでおにぎりを握り始める右近さん。
30歳からほぼ毎日700個ずつ握り、50歳以降も毎日500個は握っているという。計算すると42年間で750万個!
9月30日にスタートした橋本環奈がヒロインを務めるNHK連続テレビ小説『おむすび』は目には見えない縁、人とのつながりが描かれるというが、まさしく右近さんの半生も同じだった。
「橋本環奈ちゃんが両手で三角をかたどった“おにぎりポーズ”をしていましたが、あれはもともと私のポーズです。環奈ちゃんまねしてくれたのかな(笑)。
私の人生もいろいろあって。苦労大会だとしたら1位になるぐらい……、そう思い込んでいた時期もありました」
■家出先に会いにきてくれた母のおにぎりには筋子がぎっしり詰まっていて――
右近由美子さんは’52年6月23日に生まれ、新潟県新潟市で育った。父・由二さんは苦労人で厳格だったという。
「父は10歳で父親を亡くし、尋常小学校を辞めて豆腐店に丁稚に行きましたが、体が小さくて1日でクビに。樺太に移住してとろろ昆布の箱入れ作業をしながら、職場の人に勉強を教わったそうです。
戦時中は満州にも渡り、残酷な場面に遭遇しており、人に言えない苦労があったそうです。
そんな背景もあってか父は“正しく生きること”に関しては、とても厳しくて。私には耐えられませんでした」
ボタンが取れそうになっている服を着ていたら「女がそれじゃダメだ」と引きちぎられた。
「私が『うん』と返事すると、『はいと返事しないと、お父さんが笑われるんだぞ』といちいち怒られる。厳しすぎる父のことが嫌いでした」
いっぽう母の時子さんは「とにかく優しかった」という。右近さんが父に怒られると、間に入ってその場を収め、後でこっそり「お父さんは苦労しすぎて、根性が悪くなっちゃったの」と寄り添ってくれた。
子供好きの右近さんは、保育園の先生になるために大学進学を希望したが、父は「女に大学は必要ない」と、にべもなかった。
「大学に行けないのなら、学校に行く意味なんてないと思って。高校に行かずに、停学処分を受けたこともありました。
夜は、当時は不良の溜まり場だったディスコに行ったり。深夜に帰宅すると、父が激怒しないよう、母がこっそり家の鍵を開けてくれました」
結局、夢を実現できず、高校卒業後は、燃料会社の新潟営業所に事務員として就職した。
「1年ほど働きましたが“こんな生活嫌だ!”って。それで19歳のとき、お給料をもらったその足で家出したんです」
翌日に東京・上野に到着。給料袋には2~3万円しか入っていなかった。家出少女として補導されないよう、衣類を詰め込んだ紙袋をコインロッカーに預け、仕事を得るために履歴書も持たずビジネス街・大手町に移動するが――。
「その日は建国記念日だったので閑散としていました(笑)。あきらめて上野に引き返して、喫茶店でコーヒーを飲んで……。
店員さんに仕事を探していることを話すと、『隣の喫茶店なら募集している』というので、すぐにお願いに行きました」
いかにも右近さんが“わけあり”に見えたのだろう。『相部屋だけど、寮もあるので住み込みで働けますよ』と受け入れてくれた。
「とにかく節目で大事な人と出会ってきました。いまの私があるのは人との出会い、縁のおかげなんです」
仕事と住居が決まったところで、心配している母に電話した。
「父は、私の家出を知って激昂し、暴れて、なだめに来た隣のおじさんの首を絞めたりしたそうです。でも私にも意地がありました」
母は会いに来てくれることになったが、右近さんは『おにぎりを3、4個持ってきてほしい』と手紙を書いたという。
「すると、大きなのりを1枚ベロンと巻いたおにぎりを、いくつか持って来てくれて。私はもったいなくて、しばらく眺めてからじゃないと食べられませんでした」
ようやく手にしたおにぎりの中からは、今ではぼんごの人気具材となっている筋子が、これでもかというほど詰め込まれていた。
「我が家では筋子は贅沢品で、いつも『チビチビ食べなさい』というのが母の口癖だったのに……。
そんな母の優しさがつまったおにぎりが、私のおにぎりの原点であり、目標なんです」
■おにぎり店の店主と結婚。厨房に立つも恐怖で「1週間で胃に穴があきました」
「近所に友達ができたので、遊ぶお金もほしかったですし、食事はタダでもらえるパンの耳でしのいでいました」
当時、女性の右近さんが一人で入れる店は中華料理店くらいしかなかった。そのため食事はパンの耳かラーメンばかり。米どころ出身であったにもかかわらず、お米不足状態だったという。
「そんなとき友達の一人が『大塚においしいおにぎり屋さんがある』と誘ってくれたんです。
それがぼんご。青じそとしば漬けのおにぎりを1個ずつ、それとなすの糠漬けを食べたんです。
東京では炊きたてのごはんを食べたことがなかったから“こんなにおいしいものがあるのか”と感動して、ほとんど毎日のようにお店に通い始めたんです」
常連客となると、“店主のおじちゃん”が「よぉ、コーヒーでも飲んでいくか」「パチンコでとってきたあんみつ食べるか」と、何かと気にかけてくれるようになった。店主の祐(たすく)さんは27歳も年上で、右近さんの父と同じ年齢。父はコツコツ苦労を重ねてきたが、祐さんは要領がよく、戦後も進駐軍相手にバンドのドラマーとして活躍し、食べることに苦労したことがなかったという。
「生き方の違いもあったのか性格は真逆。男性といえば父のことしか知らなかったので、おじちゃんと出会い“世の中には、こんなやさしい男もいるんだ”と思ったんです」
祐さんは早くから右近さんを見初めていたようで、誕生石の指輪をプレゼントするなどアプローチしてきた。
「友達と『絶対におかしいよね』『あぶない、あぶない』と、ちょっと警戒していたんです。でも、おじちゃんは『ボク、君の人生の踏み台になってもいいよ』とまで言ってきて……」
祐さんの“捨て身”の求婚は、右近さんの心を動かしたが、壁となったのは厳格な父親だった。
「父は『二度と新潟に帰ってくるな』と。おにぎり屋という仕事への不安もあったんでしょうね。でも、母は上京してぼんごの納豆おにぎりを食べて、安心してくれました。母の説得があったのか、父も結婚を認めてくれたんです。父は上京したときは私に、『おにぎりを握れ』と言うようになり、必ずお土産として持ち帰りました」
両家の縁を結んだものがおにぎりだったのだ。だが、そのおにぎりで右近さんは大変な苦労をすることになる。
24歳で結婚し、皿洗いや接客など店の手伝いを始めたが、30歳のときに、ぼんごで働いていた祐さんの弟が脳梗塞で倒れ、さらに職人も急死し、おにぎりを握れる人がいなくなってしまったのだ。
「主人から『お前が明日から握れ』と言われ、それが地獄の始まりでした。主人は不器用で不格好なおにぎりしか握れないし、何も教えてくれないし、気がつくとふらっといなくなってしまう。
私も負けず嫌いで『教えてください』『できません』『休みたい』とは絶対に言えないタイプなんです。一度だけ、『明日だけはお店をお願いします』と頼んだんですが、次の日、主人は起きてきてくれませんでした」
保育園の先生になりたいと思うほど子供が好きだった右近さんだが、あまりの忙しさで自分が子供を持つことなど考えられなかったという。
当時、ほとんど全ての客は常連で、右近さんに厳しかった。
「お客さんからは、ほぼ文句しか言われませんでした。『ごはんが熱すぎる。巣鴨警察署に訴えるぞ』『お前の作った味噌汁は世界一まずい』……、最大の屈辱は『あんたの代わりに、俺が握ってやろうか』という言葉でした。
仕事中はお客さんの顔を見ることすらできにずっとうつむいたまま。まな板の前に立つのが怖くて、1週間で胃に穴があきました」
だが、愚痴を聞いてくれたり応援してくれる常連客も多かった。
「ある方からの『苦情を言ってくれるのは、また店に来たいからだよ』という励ましの言葉にも勇気づけられました」
右近さんはお客の苦情に真摯に耳を傾けるようになった。「味噌汁が苦い」と言われれば、なぜだろうと考え、昆布をお湯が沸騰する前に取り出さなければならないことを客から教わった。
そうやって一つ一つ学び、10年後、ついに初めて“会心の一個”を握ることができた。
「何がきっかけかわかりませんが、天才じゃないかと思えるほどのおにぎりが握れて、自信が持てました。
そこからですね、お客さんの顔を見られるようになったのは」
(取材・文:小野建史)
【後編】おにぎり店「ぼんご」の女将・右近由美子さん 「夫の介護」「借金」「睡眠不足」の三重苦にも打ち勝った“おにぎりを握り続ける理由”へ続く

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