滑走路ない山に着陸!? ドイツ“最狂の指揮官”が最後にすがったヘンテコ機「無理やり成功させたぞ、コイツ」

第二次大戦でイタリア降伏後、失脚したムッソリーニは飛行機での侵入が困難なグラン・サッソのホテルで身柄引き渡しを待つ身でした。しかしドイツ軍はここから、まさかの方法でムッソリーニを奪還します。
第二次世界大戦時のイタリアは、日本やドイツとともに枢軸側の主要国としてアメリカやイギリス、ソ連(現ロシア)などの連合国と戦っていましたが、1943年9月8日にいち早く休戦を発表して枢軸国から離脱し、降伏しています。
しかし、その際にイタリア半島北部をドイツが実効支配したことで、南北に分断。その結果、北イタリアにはドイツの傀儡国家であるイタリア社会共和国ができ、こちら側は戦争を継続しています。
滑走路ない山に着陸!? ドイツ“最狂の指揮官”が最後にすがっ…の画像はこちら >>短距離離発着が可能なFi156「シュトルヒ」(画像:フィンランド国防省)。
この北イタリアの実効支配を続けるために、ドイツが神輿として担ぎ上げようと白羽の矢を立てたのが、1943年7月25日にイタリア首相の座から失脚し逮捕されていたベニート・ムッソリーニでした。彼は逮捕後、山岳地グラン・サッソのホテルに幽閉されていましたが、連合軍側に引き渡される前にドイツ側が身柄を確保しようと動きます。こうして1943年9月12日に実行されたのが、「グラン・サッソ襲撃」とも呼ばれる「ムッソリーニ奪還作戦」でした。
とはいえ、この奪還作戦は、かなりの困難が予想されていました。ドイツ軍は事前の諜報活動により、ムッソリーニがグラン・サッソにあるホテル「カンポ・インペラトーレ」にいることを確認します。しかし、その場所は山の中腹、標高2112m地点で、そこを強襲する方法で頭を抱えることになります。
地上側、山道の入り口については厳重な監視が敷かれているため、そこから山を登っていくのは敵の反撃とかかる時間から難しいと判断。空からの侵入が提案されますが、山の風と地形の影響を鑑みると、ドイツ空軍で空挺作戦を担当する降下猟兵であってもパラシュート降下では、安全性から無理と判断されます。飛行機で奪還を行おうとしても、ホテルの敷地内には降りられる場所がありません。一時は、世界初の実用ヘリコプターであったFa223の使用も考えられたものの、結局故障で使えなくなりました。
そこで、救出作戦を任された武装親衛隊のオットー・スコルツェニーが考えたのが、偵察機や連絡機として使われていたFi156「シュトルヒ」と軍用グライダーを使った作戦です。ドイツ軍の降下猟兵は大戦序盤のベルギーでのエバン・エマール要塞での戦いでグライダーを用いた降下作戦を世界で初めて実行して以降、複数の作戦で使用しており、グライダーを使った戦法では巧者で、いかに狭い場所でも正確に降ろす技術を持っていました。
作戦決行の当日、スコルツェニーと降下猟兵は、8機の軍用グライダーを使い、ホテルの目の前へと降下。同地を守っていたイタリア国家憲兵隊(カラビニエリ)は、まさかドイツ側が本気で空から侵入して奪還を行うとは考えておらず、全く抵抗できずにムッソリーニを奪われてしまいます。
しかし奪還後が大きな問題でした。ムッソリーニを守りながら下山すると、地上で敵に包囲される可能性が高まります。そこで活用されたのが、ホテル至近に着陸し待機していたFi156「シュトルヒ」でした。
当初、飛行機の離陸は無理と判断されていましたが、ムッソリーニが軟禁されていたホテルの前には、小さい空き地がありました。そこならば、「シュトルヒ」を降ろしてムッソリーニを空路で護送できるとスコルツェニーは判断したのです。
同機は、卓越した短距離離着陸能力を有しており、着陸時は約20m、離陸する際も50m前後の滑走で進空できました。乗員は4名のためスコルツェニーとムッソリーニを収容すると若干重量オーバー気味でしたが、75m程度の滑走で離陸したと言われています。
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救出直後のムッソリーニ(画像:連邦公文書館)。
さらに、グライダーで降りた降下猟兵に関しても、付近にあったロープウェイを占拠し下山。陸路で撤退します。あまりの手際の良さにここでもカラビニエリはほぼ抵抗らしい抵抗できないまま、ムッソリーニを奪われたうえ、敵の完璧な脱出まで許すことになりました。

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