泉房穂「一生立てない」障害のある弟を連れて母が心中未遂…10歳で明石市長を目指した壮絶過去

“暴言市長”として全国に名前を知られることとなった元明石市長・泉房穂。方言交じりの早口で持論をまくしたて、批判を恐れない。それが「世のため人のため」になるのなら──。
そんな彼が「嫌われたくない」と下手に出る相手はただ1人だろう。妻・洋子さん。泉を「政治家に向いていない」と斬り、時には「こうしたほうがええんちゃう」と参謀になる。
結婚生活23年目にしてはじめて、夫婦の歩みが語られた。
「さあ、いっぱい話をしますよ。自分のことは尽きないぐらいネタがありますから、放っておくと3日ぐらいしゃべっています」
席に着くなり背広を脱ぎ、ピンクのワイシャツを腕まくりした泉房穂(60)はこう切り出した。
泉は、この日も走っていた。朝一番でTOKYO FMでラジオ収録をし、その足で取材場所にやってきた。夕方からはフジテレビでの番組収録が待っている。
’23年4月に兵庫県明石市長を退任した泉。今春から芸能事務所ホリプロに所属している。
「事務所に入ると『今までのようにズバズバ言えなくなるのでは?』と思った人もいたようですが、私は私のまま。スポンサーの言いなりの芸能界やテレビ局のあり方を変えていきたいと思っています」
連日、ワイドショーやニュース番組で自民党の裏金問題や政府の少子化対策に対して鋭く切り込む。彼の言葉に説得力があるのは、12年間務めた市長としての実績があるからだろう。
「明石市では子ども予算を倍増し、医療費、保育料、給食費、おむつ代、公共施設の利用料の『5つの無料化』を実現しました。児童手当については、18歳まで拡充し、所得制限なしの給付をすでに始めています。明石のような小さい街でできたことを、国はなぜできないのかと思いますよ」
顔を紅潮させて、泉は続ける。
「国民は30年も給料が上がらず、物価が上がって苦しんでいます。それに少子化対策もまったく不十分。簡単ではないけど、このままでは国は滅びますよ」
全国を「市民に優しい街」にするために、メディアに出て発信力を強化しているという。そんな泉の「力」に、政界も熱い視線を送っている。
「各政党が立候補してくれとか、都知事選の話もありました。でも断っています。私は去年還暦を迎えましたが、人生の2周目は国全体を変えていきたい。もっとも明石市と国ではレベルが違うから、次の段階へ自分を高めていかなあかん」
隣の部屋にも届くほどの大きな声。それが突如、蚊の鳴くような声になった。妻に取材の依頼をするため泉が電話をしたときだ。
「はい、すみません、私ですけど、すみません、今、取材を受けている最中なんだけど、すみません、ちょっと妻にもインタビューをと言われて……はい、すみません」
妻の快諾を得るとスマホを置き、ホッとした表情を見せた泉。炎上上等! と飛ぶ鳥を落とす勢いの泉の素顔が垣間見えた。
泉は、’63年、明石市二見町で漁業を営む父・秀男、母・小夜子の長男として生まれた。
「親父は戦争で3人も兄貴が死んでしまったから、家族を支えるため小学校を卒業してすぐに漁師に。親父の家の3軒隣の漁師の娘がわがオカン。貧乏漁師の息子と娘が結婚して生まれたのが私です。
親父は本が好きだったけど『本は目が悪くなる。漁師は目が命や』と叱られて育ったので、『せめて自分の子どもには勉強させたろ』と心に決めていたそうです」
泉が4歳のとき、脳性小児マヒの障害のある弟が生まれた。当時は「優生保護法」があり、とりわけ兵庫県では、「不幸な子どもの生まれない運動」と称して、障害者の存在そのものを否定する運動が始まったところだった。
「ひどい話やけど、それがまかり通っていた時代。医者は見殺しにするようにと言うので、親父とオカンはいったんは承諾したそうです。でも弟の顔を見て『嫌だ、この子を死なせることはできん』と思い直し、自宅に弟を連れて帰ってきました。
実は、弟が生まれる前年(’66年)にも母親は身ごもっていたんです。ところがこの年は60年に1度の丙午。隣近所が『男を不幸にするからろせ』の大合唱で、性別もわからないまま堕胎させられた。だから弟に関しては、たとえまわりから白眼視されても『障害があってもええ』と腹を決めたんです」
泉には、心に刺さったトゲのような母親の言葉がある。
「私が6歳のとき、2歳の弟の障害者手帳に『一生起立不能』と書かれた日に、オカンは世をはかなんで弟と無理心中を図ったんです。でも死にきれず、私を『お前がおるから死なれへんかった、お前のせいや』と怒るわけです。理不尽なオカンですわ、大好きやけど。私と似て口が悪くて、思ったことを言ってしまう。足が速くて勉強もできた私に『お前が2人ぶん取って生まれてきたから弟は歩かれへんのや、半分返せ』と。返せと言われても返されへんがな……」
それから泉の両親は「絶対歩かせる」と弟に器具を付けさせ猛訓練させた。医者から「一生立てない」と言われたが、弟は4歳で立ち上がり、5歳で歩き出した。
「これで弟と一緒に学校に行けると喜んでいたら、当時の明石市が、『ほかの児童に迷惑がかかるから遠くの学校に通え』と。なんとか頼み込んで地元の小学校に入学できましたが、その条件が『送り迎えは家族がする』『何があっても行政を訴えない』。明石市を恨みましたよ。両親は朝2時半から働いていたから、弟の送り迎えは私の役目。自分のランドセルに弟の教材を入れて、学校のトイレで入れ替えて『今日も戦ってこい』と弟を送り出していました」
全校児童で潮干狩りに行ったとき、弟が浅瀬で突っ伏して溺れかけていた。誰も助けてくれず、泉が慌てて抱き起こした。泥だらけの弟と歩いた帰り道、10歳だった泉はこう誓った。
絶対に明石を優しい街に変えてやる──。
【後編】泉房穂「政治家に向いていない」7歳年下妻が語る明石市長当選から暴言辞任までへ続く

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