100以上のフォントを開発してきた書体設計士・鳥海修さん 70歳を前に追い求める「普通の書体」

第58回吉川英治文化賞を受賞した書体設計士・鳥海修さん(69)の著書「明朝体の教室」(Book&Design、3520円)には、日本で150年の歴史を持つ明朝体の創作手順が記されている。ごく当たり前に日常生活に溶け込んでいる文字を「作ること」を生業(なりわい)としている鳥海さんは「皆をのみ込み、包容力のある“普通の”書体を作りたい」と話す。(瀬戸 花音)
「えー! 活字って人が作ってるんだ」。鳥海さんに読者から届いた実際の反応である。聞き慣れない鳥海さんの「書体設計士」という肩書は、印刷物で使用する文字のフォントを制作する仕事をしている人のこと。「この本は文字を使うみんなに読んでほしい。うちのおやじは、私がどういう仕事をしているのか、いくら説明しても分からないまま死んじゃったんですよ。だから、おやじにも読んでほしいなあ」と笑った。
本書では、明朝体の制作手順を丁寧に細かく説明。漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットそれぞれの文字デザインの特徴をまとめている。読後には、世の中の文字一つ一つが創作物という意識が生まれ、何とも不思議な感覚に陥る。「街の看板にだって文字はあふれている。書体に対して興味を持ってもらえて、そういうものに意識がいけば過去にも目がいくし、もっと世界が広くなるというか、豊かに感じられるんじゃないかなって思うんです」
“文字を作る人”鳥海さんは、「辺りを見渡しても文字なんかない」山形の田園地帯に生まれた。「あるのは庄内平野の田んぼと、その向こうに見える海と、鳥海山」。車のデザインに興味があったが、そこしか受からなかったという理由で多摩美術大グラフィックデザイン学科に進んだ。
人生の転機は大学3年生の時。単位を取るために受けていた文字デザインの授業中だった。新聞社に見学に行った。小さな部屋の中、隅で一人、作業をしている人がいた。10センチほどの大きさの、たった一文字を丁寧にレタリングしている。その一文字が「やたらきれいだった」。思わず「そのきれいなの何するんですか?」と聞くと、思わぬ答えが返ってきた。「活字のもとを作っているんです」
頭の中に生まれた疑問符は消えなかった。「私は、活字っていうのは人が作っているって全く考えてなかったし、なんとなく畑を掘れば出てくるみたいな感覚でいた。『ここで作ってるってどういうこと?』って」
そして、新聞社の案内をしてくれた書体デザイナーの小塚昌彦さんに言われた「日本人にとって、文字は水であり米である」という言葉に衝撃を受け、故郷の風景を重ねた鳥海さんは「これをやりたい!」と素直に思ったという。「読みやすい文字を作るというグラフィックデザインがあると知ってびっくりした。目立つのがグラフィックデザインという私の浅はかな考えからすると、真逆の位置にあった。それ以降、もう文字を作ることしかやっていません」
大学を出て、書体制作を手がける写研に入社。その後、「字游工房」を設立、ヒラギノ書体、游書体ライブラリーの游明朝体・游ゴシック体など100以上の開発に携わってきた。そして、そのノウハウを伝えるためにまとめたのが本書だ。
今の鳥海さんの夢を聞いた。鳥海さんは「この年で夢なんてねえ」と笑った後、「夢よりも、もうちょっと現実的なものだと、いろいろあるんですよ」と続けた。
ひとつは用途サイズに合った書体の基準を作ることだ。「今、書体の種類は3000、4000あるといわれている。グラフィックデザイナーとか文字を扱う人たちは、それだけある中から、どうやって選んでるんだろうって思う。たぶん選択肢にも上らない書体がいっぱいある。多くの書体を生かすために、読みやすさを指針にした『この書体をこのサイズで使うと、みんなが読みやすいと思いますよ』っていう基準を一回作るべきだと思うんです。でも…それやろうとするとね、何十年もかかるみたい(笑い)」
もうひとつは、今感じる“普通の”書体を作ることだ。普通は大変だ。水や米のような、最も普通の本文用明朝体を目指して字游工房が初めて制作し、02年に発売した自社書体が「游明朝体」。どうやって普通にたどり着いたのかと尋ねると、「それがね、たどり着かないんです」との言葉が返ってきた。
「私は“普通”が游明朝体で完成したとはちっとも思ってないの。游明朝体はすごく清廉潔白できれい。ところが今の年の私が考えている“普通のもの”ってきれいなだけじゃないというか。清濁併せ呑(の)むような細い川じゃなくて、太くてみんなを呑み込んでいくような包容力のある、そういう書体を作りたい。みんなが安心して使える、読めるような本文書体を作りたいんです」
鳥海さんはそれを「夢じゃないんです」と繰り返す。なぜなら69歳の今、その山の麓に確かに立っている感覚があるからだ。
40年ほど前、グラフィックデザイナーの森啓さんから言われた言葉がある。「70歳にならないと本当の明朝体は作れない」。本書を出版し、数々の取材を受けている中で、自身の考える今の普通がどういうものか、整理ができてきた。「山はもうそこに見えてる感じ。あそこに登ればいいって、今そんな感覚です」。新しい「普通の文字」が生まれる日が楽しみだ。
◆鳥海 修(とりのうみ・おさむ)1955年3月13日、山形県生まれ。69歳。多摩美術大卒業後の79年に写研入社。89年、字游工房の設立に参加。2002年佐藤敬之輔賞、05年グッドデザイン賞、08年東京TDCタイプデザイン賞を受賞。12年から「文字塾」を主宰。24年、吉川英治文化賞受賞。

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