現在、エディオンアリーナ大阪で開催中の大相撲春場所。最大の注目は新大関の琴ノ若(26)だ。
琴ノ若といえば、父親が元関脇・初代琴ノ若にして、師匠ともなる13代佐渡ヶ嶽親方、母方の祖父が第53代横綱・琴桜(2007年8月14日に66歳で死去)という親子三代にわたっての角界のサラブレッド。新大関として迎えた今季春場所は、二日目に朝乃山、五日目に宇良に敗れつつも、順調に白星を重ねている。幼いころから「力士」になるべく、祖父と父の薫陶を受けた新大関だが、その原点は親元を離れて寮生活で汗を流した埼玉栄中学、高校の相撲部に突き当たる。1988年に監督に就任し、同校を全国屈指の名門校に育て上げた山田道紀(やまだ・みちのり)監督(58)が、集英社オンラインの取材に応じて高校時代に琴ノ若が覚醒することとなった秘話を明かした。
埼玉栄相撲部・山田道紀監督(58)
琴ノ若傑太(ことのわか・まさひろ)こと鎌谷将且(かまたに・まさかつ)が父親の佐渡ヶ嶽親方、母親の真千子さんの元を離れ、山田監督夫妻が切り盛りする埼玉栄中相撲部に入部したのは2010年のことだった。相撲部屋に生まれ、裕福な家庭で育った鎌谷少年に山田監督がまず教えたことは、日常生活での「礼儀」だった。「もちろん、全員ではありませんが私の経験上、お相撲さんの子どもは、裕福な環境で育ってた子が多いですから、少し世間ズレしているところがあるものなんです。ですから、私は例えば先輩やお世話になっている方々からジュース1本でも買ってもらったら、必ず『ありがとうございました』と言いなさいと、そういう当たり前のところから教えました。ただ、琴ノ若に関しては、ご両親、おじいちゃん、おばあちゃんの教えがいいんでしょう。最初からそういった感謝の気持ちを持っていた子どもでした。忘れられないのは、ある日、私が部員を1500円の焼き肉食べ放題の店に連れて行ったことがありました。琴ノ若はそれまで相撲部屋で育った子どもですから、もっと高額な牛肉なんかを食べて育ってきたはずなんです。だけど、1500円の食べ放題の肉もすごく喜んでおいしいと食べていました。そんな姿を見て、私はこの子は素直で感謝の気持ちを持っている子だなと感じたことを思い出します」山田監督が生徒を指導する上で重視するのは、練習や試合での勝ち負けよりも、こうした日常生活での「礼儀」だ。「強くなるために大切なことは『素直さ』なんです。この大切なことを培うために必要なことは礼儀作法です。私はそこは練習以上に厳しく指導しています」
中学から高校1年まで相撲の実力においては、鎌谷少年は目が出なかった。しかし、「素直な性格」を読み取っていた山田監督は「必ず強くなる」ことを確信していたという。そして、高校2年から団体戦のレギュラーに抜擢し、3年時には主将に指名した。2015年に兵庫県洲本市で開催された「全国高校選手権」と「世界ジュニア選手権」では共に団体戦で部を優勝へと導き、自身も「世界ジュニア選手権」では個人戦で優勝している。そうして、この年の秋に佐渡ヶ嶽部屋に入門し、九州場所で初土俵を踏んだ。山田監督によると、高校時代に鎌谷少年が栄光に辿り着くまでに覚醒した瞬間があったという。それは高校2年の夏。青森県十和田市で開催された全国大会「十和田大会」だった。団体戦で敗れた鎌谷少年に試合後、山田監督は大会が開催されている土俵の隣にある「サブ土俵」で同級生だった日翔志(現・幕下/追手風部屋)と80番を越える「三番稽古」を課した。「負けるのは仕方がない。ただ、私の目から見てこのときの琴ノ若が『かっこつけている』と思えたんです。私は今も生徒には『土俵に上がるのにかっこつけるな』と指導します。相撲で大切なのは苦しくなったときの辛抱です。相手に追い込まれたときにいかに我慢できるか。かっこつけていたら我慢なんてできません。あの十和田大会では表彰式が終わるまで三番稽古をやらせました。観客もすべて見ていました。そんな中で厳しい練習をさせることで、我慢することを覚えてほしかったんです」この高校2年での「十和田大会」での猛練習をきっかけに琴ノ若は「相撲に対する姿勢がガラっと変わりました」と山田監督は振り返る。大関昇進が決まったとき、山田監督に本人、さらに師匠で父の佐渡ヶ嶽親方、母の真千子さんから「埼玉栄での指導のおかげで大関に上がることができました」と感謝を伝えられたという。「そういってもらえてうれしいですよ。ただ、それは本人の努力。そして、師匠、おかみさんの指導の賜物だと思います」と山田監督は目を細めた。
2024年春場所の埼玉栄出身の関取一覧 埼玉栄相撲部ホームページより
琴ノ若の大関昇進により、日本人力士の番付最高峰は、大関・貴景勝と並んでそろって埼玉栄高出身力士となった。さらに今場所は十両以上の関取のうち14人が同校出身。これまでも大関・豪栄道(現・武隈親方)ら角界に多くの名力士を送り続けてきた。プロで大成する力士を育てる秘密を、山田監督はこう明かす。
「プロ志望の子供を指導するとき、私が一番に考えることがケガをさせてはいけないということです。プロとして大成させるために中学時代は体づくりです。そこから高校に進んだときの生徒それぞれの指導をどうするかを考えます。高校3年間といいますけど、実際は3年生の最後の大会までは2年半とすごく短いんです。一度、けがをしてしまったらすべて棒に振ることになります。ですから、まずはケガをさせないことが一番です」そのため土俵上での申し合いは、番数を少なく制限している。代わりに重視しているのが徹底した体作りだ。しこ、すり足といった基礎練習はもちろん、専属トレーナーの指導のもと、相撲に必要な筋力を徹底して鍛え上げる肉体トレーニングに練習の大半を割く。
2024年春場所での大関・琴ノ若 写真/共同通信
「私は試合に勝つ稽古をまったくさせません。プロになりたいなら高校時代に焦ることはないからです。それよりも基礎体力を培うことが基本です。プロになりたいという子どもが中学から高校時代に一番やらなくてはならないことは、ケガをしないための強い体を作ることなんです。このベースを作ってあげることが私の役割だと思っています」高校野球では、甲子園の全国大会での過剰な投球数による高校生の身体的負担が問題となり2000年から延長18回が15回となり、2018年からはタイブレーク方式となった。こうした学生の身体のケアを山田監督は、高校野球に先がけて取り組んできた。トレーナーと共に部員のケガをケアするための治療院との連携を結ぶなど、生徒個々の将来を見据え、基礎体力と肉体の礎を作る。この徹底した土台作りが多くの関取を輩出してきた所以なのだ。山田監督は最後に「夢」について言及した。「琴ノ若と貴景勝の2人に横綱になってほしいですね。琴ノ若は、今の相撲を続ければ上がると思います。貴景勝も筋力が大関昇進した当時まで戻れば負けないと思います。2人の横綱誕生が今の夢です」21世紀初の日本出身横綱となった稀勢の里(現・二所ノ関)以来の日本出身横綱の誕生……山田監督の「夢」は、そう遠くない未来に叶いそうだ。取材・文/中井浩一