あの日の津波は人々の命を奪っただけでなく、生き残った人たちに、大切な家族や財産を失うという絶望をもたらした。13年という歳月を経て、被災者たちの悲しみは癒えてきたのだろうか。現在の生活、生きがい、そして今年1月に発生した能登半島地震で感じたことは―。山元町で自宅を流され、ほぼ全財産を失った斎藤志津子さん(58)に聞いた。
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シングルマザーの斎藤さんはあの日、三女の坂元中学校(廃校)の卒業式に参加していた。激しい揺れに襲われたのは式を終え、町内で開いた謝恩会で食事している時。会場のシャンデリアが崩れ落ち、ガラスが割れ、壁は崩れた。「こっちに来て!」。目から離れていた三女を必死で呼び戻したこの時、斎藤さんは絶叫で自らの声を潰した。
濁流が押し寄せて来る。「自宅が心配だ」と慌てて車で帰った人たちの多くは、そのまま戻って来なかった。齋藤さんは恐怖心で三女とともに一歩も動けなかったことが幸いし、生き延びた。
両親、長女、次女の無事は後に確認できたが、広い農家だった自宅は、跡形もなくなった。江戸時代から伝わる農機具や三味線、思い出の品々も…。ほぼ全財産を失った。近所で新聞配達をしていた三女は、親しかった人たちが次々と亡くなったことを知り、心に深い傷を負ってしまった。記憶がフラッシュバックする度に息苦しくなり、嘔吐(おうと)し、何度も救急車で運ばれた。医師からは命の危険も指摘された。
勤務先も全壊し、仕事もなくなった。仙台の仮設住宅での生活は「目覚める度に、夢なのか現実なのか分からなくなる毎日」だったという。だが、いつまでも何もしないわけにはいかない。気を紛らわすため、洋裁の趣味を生かしてティッシュケースや巾着などの小物作りを始めた。コミュニティーから「かわいいね」「作り方を教えてほしい」と声が上がり、手作りクラブを結成。ボランティアの人からの勧めで、販売会に出品するようになった。「やるのならばお情けでなく、欲しいから買ってもらえるものにしたい」と意気込むと、販路は拡大。仙台七夕や駅前のS―PALでも出品できるようになった。
公営住宅で暮らす今は、震災を機に磨いた小物づくりの腕を生かし、障がい者の就労支援事業に従事している。ニュースはあまり見ないが、能登半島地震の被災者の姿は13年前の自分の姿と重なり、つらくなる。「体さえ元気でいれば、誰かの役に立ち、生きる意味を感じられる時はきっと来る。生きる希望だけは持っていてほしいです」。もし小物作りで役立てる機会があるならば「是非やりたい」と思っている。
三女は今年で28歳。今も心の傷との闘いは続いているが、母の前向きな姿を見続けて、前へと歩き始めた。大好きな動物に関わる仕事を目指しているという。(甲斐 毅彦)