航空自衛隊の入間基地にはなんと、110年以上前に日本の空を飛んだ飛行機が保存・展示されています。ここに至るまで、昭和史の大波に翻弄された数奇な運命を辿っていました。
埼玉県狭山市にある航空自衛隊入間基地には、隊員向けの教育用施設として「修武台記念館」という歴史資料館があります。ここは2012(平成24)年3月のリニューアルオープン後、月に1、2回の頻度で事前登録が必要ながら一般向けの見学会も行われており、このたび筆者(吉川和篤:軍事ライター/イラストレーター)も参加してきました。
見学会は90分ほどの行程で、自由見学方式と解説員が引率するツアー方式の2種類が設定されています。筆者は後者を申し込んだところ、途中で記念館の横にある格納庫へ立ち寄ることに。そこで、ヘリコプターやジェット戦闘機と並んで展示される、茶色い古色蒼然とした機体を目にしました。
空自入間基地の「一番古い保存機」とは? “殿”と成し遂げた「…の画像はこちら >>歴史資料館「修武台記念館」の格納庫に展示される、日本初の飛行を行った「ファルマンIII」複葉機、いわゆる「アンリ・ファルマン号」の実機。木製の骨組みに羽布を張ったオーソドックスな当時の構造である(吉川和篤撮影)。
それは、木製の骨組みに羽布を張った、やや大柄な2人乗りの複葉機(主翼が上下2枚ある飛行機)です。操縦席の後ろに星形エンジンとプロペラを搭載する、いわゆる「プッシャー式(推進式)」と呼ばれる構造で、機体下部には自転車のようなスポーク式タイヤが4個付いていました。
現代の目で見ると、お世辞にもスマートとは呼べない機体でしたが、実は我が国の航空史に多大な足跡を残した航空機であったのです。
この展示機は、1910(明治43)年10月にフランスで購入された「ファルマンIII」複葉機。第1次世界大戦の前は、各国が競うように購入したベストセラー機で、その後の航空機開発に大きな影響を与えた機体です。日本では開発者の名前から「アンリ・ファルマン号」と呼ばれ、同年12月には東京の代々木練兵場(現在の代々木公園)において、エンジン付き航空機として日本初の飛行を行った歴史的な機体でもあります。
この「ファルマンIII」複葉機は、いうなれば航空創成期の“名機”です。開発は1909(明治42)年4月で、フランス在住のイギリス人アンリ・ファルマンが手がけました。
彼は、飛行船の搭乗体験をキッカケにして空に憧れるようになり、1906(明治40)年6月にはフランス航空界のパイオニア的存在であったヴォワザン兄弟から複葉機を購入して自分で改造するなどしています。
なお、このとき改造された飛行機は「ファルマンI」と呼ばれ、さらに改良されて「ファルマンI(改)」へとなったそう。ちなみに、その後「ファルマンII」の設計にも着手しますが、これは未完成に終わっています。
しかし1909(明治42)年には、弟の力を借りて兄弟で航空機製作所であるファルマン航空社を設立、そこで新たに設計した「ファルマンIII」を完成させました。同機は1903(明治37)年12月に世界初の飛行に成功したアメリカの「ライトフライヤー」機と同様にプロペラが後ろに付いた推進式の複葉機でしたが、飛行士が寝そべって操縦した「ライトフライヤー」とは異なり座席を備えていました。
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「ファルマンIII」の操縦席部分。エンジンとプロペラを機体後方に搭載する、推進式と呼ばれる構造。なお、このエンジンも、シリンダーごと回転する、いわゆる「ロータリー式」と呼ばれる特徴的な構造である(吉川和篤撮影)。
また、「ライトフライヤー」は翼をたわませて方向を変えていましたが「ファルマンIII」は世界で初めて実用的な補助翼を採用しています。これにより、操縦しやすい飛行機に仕上がっていただけでなく、機体下部に車輪を取り付けたことで、草地などでの離着陸を可能にしたのも特徴でした。こうして過渡期の航空機でありながら数々の新機軸を盛り込んだ同機は、当時の最新鋭機として各国に販売されたのです。
このように、近代的な飛行機としての特性を数々備えた「ファルマンIII」は、開発された年から長距離飛行や航続時間で次々と新記録を樹立します。また、翌年の1910(明治43)年4月にイギリスで行われたエアレースでは、同機が優勝して1万ポンドの賞金を獲得。世界的な名声を獲た1910年型「ファルマンIII」は当時としてはベストセラーといえる130機も生産され、そのうちの75機が国外に輸出されたほか、イギリスやドイツではライセンス生産も行われています。
「ファルマンIII」に着目したのは日本も同様でした。1909(明治42)年7月に軍用気球研究会を設立した旧日本陸軍は、比較的早い段階からヨーロッパ各国の飛行機に注目しており、翌年の1910(明治43)年4月には機体の購入と飛行免許を取得するためにドイツとフランスにそれぞれ軍人を派遣します。
このときの前者が日野熊造大尉で、後者が徳川好敏大尉でした。なお、徳川大尉は名字が示すとおり、清水徳川家の8代目当主にあたる人物でしたが、軍人として陸軍に進みました。
この徳川大尉が選定した「ファルマンIII」複葉機は、同年11月8日に横浜港へ到着。東京中野の陸軍気球隊まで運ばれ、そこで組立てられます。当初は所沢に建設中の飛行場で初飛行する予定でしたが、工事が遅れたために代々木練兵場で行われることになりました。
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1910(明治43)年12月19日、夕暮れ迫る代々木練兵場において徳川好敏大尉(当時)が操縦して日本初の飛行に成功した「アンリ・ファルマン号」。この時、数万人の市民も練兵場に集まって世紀の瞬間を見守っていた(日本航空協会所蔵)。
技術的なトラブルや悪天候により飛行実施が順延されるなか、12月19日の夕方に徳川大尉が操縦した同機が飛行に成功、これが日本航空界の初めての足跡となります。また、日野大尉が操縦するドイツ製の「グラーデII」単葉機も飛行に成功しました。
同機は1912(大正元)年頃まで修理を重ねながら運用されていましたが、後に退役すると所沢飛行場の格納庫で保管されるようになります。そして、新設された陸軍の「所沢航空参考館」で展示機に用いられました。
しかし、太平洋戦争終結後の1945(昭和20)年にアメリカ軍が機体を接収、本土のライトパターソン空軍博物館に移されてしまいます。ただ、それによって保存されたことが功を奏し、1960(昭和35)年に「日米修好100周年記念事業」の一環として日本に返却されたことで、再び日本で展示できるようになったのです。
組み立てられた機体は、一時的に前出の入間基地へ搬入されますが、翌年2月以降は、かつて秋葉原にあった交通博物館に無償貸与され、以後長らく同地で展示されていました。ここが2006(平成18)年5月に閉館したため、機体は航空自衛隊に返還され、「修武台記念館」リニューアルに合わせて入間基地へ戻り、現在に至ります。
こうして振り返ってみると、極めて波瀾に富んだ歴史を経てきたことがわかるでしょう。そんな「アンリ・ファルマン号」ですが、前述したように事前登録制ながら一般見学も可能なので、“日本の空の原点”といえる同機を見て、当時に想いを巡らせてみるのも良いのではないでしょうか。