零戦の後継機「烈風」どうやったら大戦に間に合った? 今考える「3つの方法」 元凶は旧日本海軍のこだわり?

太平洋戦争における旧日本軍を代表する戦闘機「零戦」。ただ、その後継機「烈風」は開発が遅延した結果、戦争に間に合いませんでした。「烈風」を実用化する方法はあったのでしょうか。様々な視点から探ります。
太平洋戦争に関して数多く語られる考察(いわゆるIf:イフ)の1つに「零戦(零式艦上戦闘機)の後継機である『烈風』が戦争に間に合っていれば」というものがあります。
「烈風」は、三菱航空機(現・三菱重工)において1942(昭和17)年に開発がスタートしており、当初は十七試艦上戦闘機と呼ばれていました。艦上戦闘機として空母からの発艦性能を重視し、かつ格闘戦における性能を高めるために、主翼を大型化した結果、機体サイズそのものが大型化します。
最初の試作機「A7M1」は、速力は零戦並みで上昇力ではむしろ同機よりも劣る鈍重な機体であったため、海軍側を失望させます。しかし、エンジンを中島飛行機(現・SUBARU)製の「誉」から、高出力な自社製「ハ43」に換装した試作機「A7M2」では見違えるように性能が向上。試験飛行を担当した小福田少佐に「世界No.1の傑作機」とまで言わせました。しかし、開発が遅れたことで実戦投入される前に終戦となり、試作止まりで終わってしまいました。
零戦の後継機「烈風」どうやったら大戦に間に合った? 今考える…の画像はこちら >>旧日本海軍の艦上戦闘機「烈風」(画像:アメリカ海軍)。
そんな高性能機は、なぜ実用化が遅れたのでしょうか。よく言われるのが「烈風が検討されたさいに、搭載すべき高出力エンジンがなかった」ことです。
実際、零戦が完成した後、1939(昭和14)年9月に、三菱に発注された一四試局地戦闘機、後の「雷電」では、適当な搭載エンジンがないことから、爆撃機に搭載する「火星」エンジンを搭載しています。これにより胴体が太くなり、延長軸でプロペラを前に出して、機首をとがらせたことで、振動問題が発生し、実用化を大幅に遅らせました。
三菱は当初「雷電」を改修すれば、「零戦」の後継機となる艦上戦闘機型が作れると考えました。しかし開発は難航し、加えて「零戦」を改良するという海軍からの要求もあって、開発チームが手一杯になった結果、それどころではなくなっています。
こうしたことから、旧海軍は、1942(昭和17)年半ばに飛行実験の審査を終了する予定だった十六試艦上戦闘機を延期し、十七試艦上戦闘機に名称変更しています。これが後に「烈風」として採用されるのですが、十七試艦上戦闘機の飛行実験が審査を終えるのは、1944(昭和19)年1月の予定でした。
これは局地戦闘機「紫電改」の初飛行とほぼ同じ時期です。史実の開発方針対立によるトラブルがなくても、このスケジュールでは、実戦配備は1945(昭和20)年で結局、間に合わない戦闘機で終わったでしょう。実際の「A7M1」は、試作機完成が1月ではなく1944(昭和19)年7月ですから、半年以上遅れており、実戦参加できなかったわけです。
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旧日本海軍の局地戦闘機「紫電」。局地戦闘機とは陸上発着の迎撃戦闘機のこと。主脚の付け根部分が伸縮するようになっていたが、これが故障しやすく、本機のアキレス腱であった(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
「烈風」の開発失敗はスケジュールの問題で、早期開発ができなかった理由は、三菱の開発チームが手一杯だったことです。そうなった理由は「旧海軍にそれまでなかった」爆撃機迎撃を念頭に置いた局地戦闘機を、三菱に発注したことが原因でしょう。
こういったことを鑑みると、「烈風」の実戦投入を早めるためには、以下の3案が考えられます。
1.零戦の開発チームには、「誉」エンジンの目途が付くまで零戦の改良を行わせ、局地戦闘機は他社に発注する2.海軍が自ら次期艦上戦闘機を開発し、三菱は「雷電」の開発に専念させる3.陸軍機を局地戦闘機として採用する
1を選択するなら、川西航空機(現・新明和工業)に「十五試水上戦闘機」、すなわち後の「強風」を、水上機ではなく陸上機として発注すれば問題ないでしょう。川西は、伝統的に水上機メーカーでしたが、旧海軍が水上戦闘機に未来はないと考え、それによって試作機開発の枠が空いた同社に実例が少ない局地戦闘機を依頼するとなれば、あり得た話かもしれません。
この場合、史実で起きた「強風」を陸上戦闘機化した「紫電」が陥った「長い脚部に起因する各種トラブル」といったものが最初から起こらなくなります。水上戦闘機から陸上戦闘機への設計変更による回り道もなくなるため、1942(昭和17)年12月の「紫電」初飛行より前に、高性能な「紫電改」に類似した戦闘機が初飛行する可能性があったでしょう。
ちなみに、同じエンジンを積む陸上攻撃機「銀河」は1942(昭和17)年6月に初飛行しています。
しかも「紫電改」をベースに艦上戦闘機型を開発することも、時間的には可能になってくることから、仮に早期開発した「烈風」が失敗しても、「紫電改」である程度代替できたのではないでしょうか。
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旧日本海軍の局地戦闘機「雷電」。開発時、適当な小型高出力エンジンがなかったため、大型機用の大直径エンジン「火星」を用いていた(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
2は、旧海軍が1941(昭和16)年に「『誉』を搭載した艦上戦闘機」の性能を算出しています。それは「全長10m、全幅12.2m、最高速度638km/h、航続力2315km(攻撃過荷重)、20mm機銃2門、13mm機銃2門、正規重量3100kg」というスペックの機体です。
「烈風(A7M2)」のスペックは、全長10.98m、全幅14m、最高速度627km/h、航続力1420km+全力0.5時間(1800km程度)、20mm機銃2門、13mm機銃2門、正規重量3265kgであるため、上記の海軍案はかなり小さく、重量や空気抵抗での性能低下が起こりにくいです。ゆえに、「烈風」より有力な戦闘機になった可能性があります。ただ、この場合、陸上爆撃機「銀河」の開発をストップさせる必要があります。
3は、旧日本陸軍が開発した迎撃戦闘機「鍾馗」を海軍も採用するという案になります。「鍾馗」は1938(昭和13)年から開発され、「雷電」より1年先行していましたから「陸軍が成功したら採用」と海軍関係者が割り切れれば、あり得たハナシではないでしょうか。
初期型の「鍾馗」一型甲では、「雷電」二一型と比べて武装や航続力で劣っており、海軍関係者に不満が残った可能性はあります。しかし、改良型の「鍾馗」二型では、それらの点が改善されているため、アメリカ軍の重爆撃機を迎撃する際に重宝されたと考えます。
この場合でも、「烈風」開発は迷走する可能性がありますが、最低でも史実では人手不足でできなかった「零戦」の改良が早まる利点があったでしょう。
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旧日本陸軍の二式単座戦闘機「鍾馗」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
このように「烈風」は、海軍が新型機の開発方針を転換していれば、間に合った可能性があると思えます。ただ、これらはあくまでも結果論、80年後の未来から見た仮定のハナシであるため、「たら・れば」にしか過ぎないことは重々承知のうえです。
とはいえ、「誉」エンジンを搭載した「銀河」は1943(昭和18)年8月より量産が始まっているので、もしかしたら太平洋戦争の艦隊決戦「マリアナ沖海戦」に「烈風」が間に合ったかもしれません。
その場合、ひょっとしたら、零戦のように飛行可能な「烈風」が現代に残っていたかもしれないのです。

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