史実では旧日本海軍しか実用化しなかった、戦艦と空母を合体させたような航空戦艦。ただ、実戦では搭載機のない状態で戦い続けたので、その真価は不明です。なぜ万能のように感じる航空戦艦は、他国では実現しなかったのでしょうか。
戦艦の主砲と空母(航空母艦)の航空機運用能力を併せ持つ「航空戦艦」。創作物では多く登場しますが、史実では、旧日本海軍が艦上爆撃機「彗星」と、水上爆撃機「瑞雲」をカタパルト射出するために、伊勢型戦艦すなわち「伊勢」「日向」の2隻を改装する形で生み出したのが、世界でも唯一の事例です。
艦載機を発進させつつ、近づいた敵艦を主砲で撃沈する。まさに万能艦といった感じですが、なぜ世界各国で建造されずに終わったのでしょうか。
航空戦艦の着想自体は、1923(大正12)年にイギリス・ヴィッカース社の軍艦設計部長で、金剛型巡洋戦艦やネルソン級戦艦を手掛けたサーストン技師が、基準排水量3万5000トン、40.6cm主砲3門、速力30ノット(約55.6km/h)のプランを提唱したのが始まりです。
なお、世界で始めて航空母艦として新造された「鳳翔」が就役したのは、1922(大正11)年のことですから、空母の始まりとともに航空戦艦の着想はあったといえるでしょう。
「戦艦と空母を合体!」日本だけが作った夢の「航空戦艦」本当に…の画像はこちら >>1943年8月24日、鹿児島県の佐多岬沖にて撮影された「伊勢」。航空戦艦への改造完了直前(画像:アメリカ海軍)。
サーストン技師は1926(大正15)年にも、基準排水量2万8000トン、40.6cm三連装砲塔2基6門、最大速力26.5ノット(約49km/h)で、航空戦艦案を出しています。このプランでは、長さ140mある飛行甲板を備え、航空機30機を運用するというものでした。
排水量からすると考えにくいのですが、装甲は40.6cm砲の直撃にも耐えられるものを備える内容だったとか。サーストン技師は、主砲を30.5cm砲や35.6cm砲にした設計案も同時に出しており、戦艦と空母の両方を保有できない南米など、軍縮条約に加盟していない中小国向けの提案を念頭に置いたものだったようです。
彼は航空戦艦の研究を連綿と行っており、第2次世界大戦後も建造に取り掛かれなかったライオン級戦艦を、満載排水量4万6300トン、40.6cm三連装砲塔2基6門、速力30ノット(約55.6km/h)の航空戦艦として建造するプランを出しています。
ただ、これは性能的に、空母としても戦艦としても中途半端なので、それぞれを別に整備した方がいいとして否定されています。とはいえ、このイギリス海軍の判断そのものが、航空戦艦が実現しなかった理由になります。
すなわち、航空戦艦とは戦艦と空母の良いとこどりではなく、どっちつかずの中途半端な性能の軍艦ということで、日本以外の国では生まれなかったと言えるでしょう。
ハナシを第2次世界大戦前に戻すと、軍縮条約非締結国向けの大型軍艦として、航空戦艦は魅力的だったのか、1938(昭和13)年にはアメリカがソ連(現ロシア)向けに、大型航空戦艦の提案を行っています。
この時のプランは、基準排水量6万1840トン、全長306m、主砲は40.6cm三連装砲塔4基12門。全長122.5mの飛行甲板を備え、艦載機40機の運用が可能で、最大速力34ノット(時速79.6km/h)もの高速で走るという、まさに万能軍艦といえる内容でしたが、ソ連が通常の戦艦を希望し、アメリカ政府も軍縮条約の排水量制限を大幅に超過した軍艦は望ましくないとギブス&コックス社に忠告したため、実現せずに終わっています。
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1944年10月のレイテ沖海戦で、アメリカ空母艦載機が撮影した戦艦「伊勢」の俯瞰写真(画像:アメリカ海軍)。
ドイツも1942(昭和17)年に、28cm砲を前甲板に備え、飛行甲板付きの巡洋艦を計画したほか、フランスも大戦終結後に戦艦「ジャン・バール」の空母化を検討しています。フランスのプランは、38cm四連装砲塔2基を残したうえで、艦体後部に飛行甲板を備えるというものでした。
ちなみに、大戦前の日本では、航空戦艦が検討されたことはありません。ただし、創作物では大人気で、1935(昭和10)年から雑誌『少年倶楽部』で連載された冒険小説「新戦艦高千穂」では、水上攻撃機16機を搭載し、40.6cm四連装砲塔3基を備えた架空の軍艦「高千穂」が物語のなかで大活躍しています。
実際に実現した伊勢型航空戦艦は、35.6cm連装砲塔4基8門、艦上爆撃機もしくは水上爆撃機22機を搭載していたため、『少年倶楽部』で描かれた「高千穂」を具現化したと言えなくもないでしょう。
ちなみに伊勢型は完全な空母化(搭載機数54機)や、主砲塔2基のみを残す案(同40機)も検討されましたが、これらは完成時期が遅くなり過ぎるため、実現しませんでした。
伊勢型の航空戦艦への改装は、「伊勢」「日向」とも1943年後半に完了します。しかし、搭載予定だった艦載機を翌1944年の台湾沖航空戦で消耗してしまったことなどから、搭載機なしで普通の戦艦としてレイテ沖海戦に出撃しています。
伊勢型航空戦艦はミッドウェー海戦で空母4隻を失った旧日本海軍が、その穴埋め用として艦載機数の増加を目的に計画・改装したものですが、一度も真価を発揮することなく終わっています。
とはいえ、航空戦艦自体が役立たずかどうかは、また別の話だと筆者(安藤昌季:乗りものライター)は考えます。伊勢型はカタパルトで艦上爆撃機を射出する構想でした。前述したように、時系列としてあり得ませんが、もし開戦時に伊勢型や扶桑型戦艦が航空戦艦になっていたら、大活躍した可能性は高いのです。
カタパルト射出可能とした、九九式艦上爆撃機を航空戦艦4隻で計88機搭載していたなら、それ以外の空母に零戦や九七式艦上攻撃機を多く搭載できます。艦隊防空や索敵は強化され、敵艦隊への攻撃力も大幅に強化されていたでしょう。
航空戦艦が備える飛行甲板はとても短いため、艦上爆撃機だと、着艦できないとされました。そのため、帰投は陸上基地にするか、もしくは味方空母に着艦・収容してもらう算段で、そこがネックではありましたが、もし前述したとおり開戦時、すでに航空戦艦が4隻あったとすると、それらが大戦前半の珊瑚海海戦やガダルカナル戦に投入されたとしても、空母か味方陸上基地に戻ればいいと割り切れたと思われます。
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1945年7月の呉軍港空襲で大破した「日向」。俯瞰なので、艦体後部に飛行甲板が広がっているのが確認できる(画像:アメリカ海軍)。
あと、残念なことに日本軍の艦載機は防御力が弱いので、アメリカの空母機動部隊を攻撃した場合、航空戦艦4隻分88機以上の艦載機が撃墜されています(「珊瑚海海戦」97機損失、「南太平洋海戦」92機損失など)。その損耗度合いを鑑みると、航空戦艦から出撃した艦上爆撃機も損耗するでしょうし、帰る場所が足りないことを心配する必要はなかったものと思います。
なにより、大型クレーンの付いた格納庫には大量の物資を搭載できます。重防御された戦艦で、かつ格納庫を備えている航空戦艦は、ガダルカナル島に上陸した日本陸軍に物資を運ぶのには最適だったのではないでしょうか。
もし、航空戦艦4隻が史実での金剛型戦艦によるガダルカナル島飛行場砲撃の代わりに出撃したなら、前部主砲で飛行場を砲撃しつつ、弾薬食料を降ろすことが可能だったと考えます。それができたなら、史実で「飢島(ガとう)」と呼ばれるような惨状を防げたかもしれません。