「もう日常は戻らない」壊滅状態の輪島朝市、廃業を選択する人も。それでも「このまま終わるわけにはいかない」「みんなの居場所を残しておきたい」復興に向けて“出張朝市”を計画中〈能登地震から1ヶ月〉

能登半島地震による大規模火災で、壊滅的被害を受けた「輪島朝市」。かつての観光名所は震災から1ヶ月経った今も、復興の見通しは立っていない。一面が焼け野原となったこの灰色の世界で、朝市の商店主たちは何を思うのか。
「なんと言いますか、今でも映画を見てるみたいですよ……」焼け残った1枚の食器皿を見つめながら、女性はこうポツリとつぶやいた。
店舗兼住宅跡地で食器皿を拾う橋本三奈子さん
元日に能登半島を襲った未曾有の大震災。その夕刻に起きた大規模火災で、1300年の歴史を持つといわれる「輪島朝市」が開かれる商店街、朝市通りは一夜にして焼け野原となった。この一帯での焼失面積は5万2000平方メートルとみられ、およそ300棟が焼失。朝市通り周辺での犠牲者は10名にのぼり、現在も6名の安否がわかっていない。朝市通りにはわずかに鉄骨造りの建物が残っているだけで、ほとんどの建物が焼失し、無残にも崩れ落ちている。それは震災から1ヶ月が経つ今でも変わらない。本来であれば活気に満ちた商店街なのだろう、道ばたには焼け落ちた看板や、輪島塗りの食器用品などが散らばっていた。
焼失してしまった朝市通り
その一角で、焼け残った1枚の食器皿を寂しげに見つめていたのが、朝市通りで食堂「のと×能登」を営み、「わじまの海塩」というブランド塩を製造・販売する会社の代表でもあった橋本三奈子(61)さんだ。元日は東京の実家に帰省していたため、橋本さん自身は事なきを得たが、地震発生後初めて戻った自宅は、火災によって1階の食堂も2階の住居も全焼していた。その光景を見て、つい漏れたのが冒頭の言葉だった。橋本さんは続ける。「本当はすぐにでも駆けつけたかったのですが、物資が足りないなかで自分が戻って迷惑をかけるわけにもいかず、唇をかみしめる日々でした。でも、実際に見てみると言葉が出ないですね。テレビやネットでは朝市の惨状を見ていたはずなのに、いざ目の前にすると、ちょっと信じられなくて……」
橋本さんは東京での会社員時代、輪島産の塩を知人からもらったことがきっかけで脱サラ。輪島市内で製塩工場を営む中道肇(66)さんに「私のために塩を作ってください」と直談判して「わじまの海塩」の製造・販売する会社を起業した。そして、2016年11月に輪島市へ移住したことを機に食堂「のと×能登」をオープンした。「食堂といっても、お客さんが朝市で買った干物や鮮魚を調理して、それをご飯とあら汁のセットにして提供するスタイル。生のカニだって持ち込んでくれたら、『わじまの海塩』で茹でてましたよ。あとは私が、朝市のおばちゃんたちから仕入れたお刺身や干物を定食セットとして出してもいました。お客さんにはウケてたんですけど、コロナ禍で客足はかなり減りました。その後、ようやく輪島の朝市が再び盛り上がり始めたときだったのに、こんなことになってしまって……本当に無念でしかないです」
店舗兼住宅を確認する橋本さんと製塩工場を営む中道肇さん
橋本さんによれば、朝市通りを訪れる観光客は七尾市にある「和倉温泉」の宿泊客が多いため、温泉旅館の休業が続く今、朝市が復活するのは不可能に近いという。「地震直後、私は東京から輪島朝市組合のLINEグループに『今日○○のガソリンスタンドが再開したよ』とか『○○の銀行ATMはやってるみたいよ』といった情報を流して、市場のみなさんを励ましてたんです。でも、もう元のような日常が戻らないことを知り……。朝市のおばちゃんたちから『また輪島で朝市やりたいね』というLINEが届いたときはとても複雑でした」輪島朝市の歴史は古く、奈良時代後期か平安時代はじめがその起源とされる。現在の朝市の組合員は190人に上り、そのすべての商店主たちが大規模火災により店を失った。親子二代にわたって輪島朝市で商売をしていた道下睦美(57)さんもその1人。干しダコ等、海産物を扱っていた露店の跡地に残ったのは露店と地面を繋げていた留め具のみ。住居も焼けてしまい、現在は海産物の加工場にいたり、車中泊をしながら避難生活を送っている。
跡形もなくなってしまった道下睦美さんの露店
「母は朝市で手作りのわら人形を作っていて、私も小学生のころから朝市によくお使いに行ってました。あるお店で卵を買うと新聞紙でクルッて包んでくれるその仕草が好きで、卵のお使いがいつも楽しみだった思い出があります。私が朝市に立つようになって20年が経ちますが、忙しいときはお客さんと話して、暇なら朝市の仲よしメンバーと話す……いつもにぎやかで本当にここの雰囲気が大好きでした。(焼けた跡を見つめて)これ、どうなるんだろうね。みんなこの朝市の状況を見たら泣くと思うわ……」
道下さんの学生時代からの後輩である竹原多鶴(56)さんも、朝市で輪島塗の店を10年近く営んでいた。「道下さんがきっかけで期間限定のお店で働き始めて、気がつけば自分でお店を持ってました。コロナ前は観光客も多いし、顔見知りの人とはしゃべってばかり。本当に賑やかで楽しかったからまだ現実に頭がついていかないの。『これから初売りがんばらなきゃねー』と思ってたのに、もう全部ないんだもんね」
焼けてひしゃげてしまった食器棚
今回の地震によって二次避難で遠方の親戚宅に身を寄せたり、廃業を選ぶ朝市の組合員は少なくない。しかし、朝市の灯は完全に消えたわけではない。朝市の一部の商店主が輪島市朝市組合や県漁協組合、金石町商店街振興組合などから協力を得るかたちで金沢市金石港の漁協などの施設を借り、ゴールデンウィークでの朝市の開催を目指している。1月24日にはこの第1回相談会が行われ、各組合から21人が出席。前出の道下さんも参加した。「朝市組合としてではなく、仲のいい10人ほどの組合員メンバーで『出張朝市』に向けて動いています。とにかく輪島朝市をもう一度復活させたいんです」
地震前の道下さんの露店
「のと×能登」を営んでいた橋本さんも、「出張朝市」への思いを時折、涙ぐみながらこう語る。「金石港は、朝市通りの近くの輪島港に雰囲気が似ていますし、いろんな方たちの協力を得て一歩ずつ前に進んでいます。朝市のメンバーは『このまま終わるわけにはいかない』という思いを持っていますし、これからまわりの組合員の方たちにも『もう一度やりませんか?』と声をかけていくつもりです。それぞれ事情があって参加してくれる組合員の方は多くないかもしれませんが、いつかここに観光客が戻ってきたときのために、みんなの居場所を残しておきたい。私たちは1000年以上続くこの朝市を次世代に残す使命があると思うんです」
輪島朝市の組合員の方たち
地震によって“形”は失ってしまったとしても、復活させたいと思い行動する人がいるかぎり、復興の灯は消えない。
取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班撮影/Soichiro Koriyama

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