岸田首相を「閣下」と称した金正恩の見舞い電報に隠された真の狙い。水面下で画策される“岸田電撃訪朝”と待ち受ける「カックン理論」の罠

一本の電報が、大きな波紋を呼んだ。1月5日、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党総書記が甚大な被害の出た能登半島地震を受け、岸田文雄首相に見舞いの電報を送ったのだ。
党機関紙の労働新聞が1月6日、「被災地の人々が一日も早く地震被害から復旧し、安定した生活を取り戻せるよう祈る」とする全文を2面で報じ、林芳正官房長官も同日の記者会見で電報の存在を認め、次のように語った。「ご遺族および被害に遭われた方へのお見舞い、被害地域の方々が一日も早く地震被害から立ち直り、安定した生活を取り戻すことを願っているという旨のメッセージが発出されたと承知している。日本政府として感謝している」
1月3日に撮影した輪島市内(撮影/集英社オンライン)
ミサイル問題などで緊迫しているかのように見える日朝関係のなか、送られた電報。外交関係がなく、敵対国でもある米国と同盟を結ぶ日本の首相に、金正恩氏が見舞い電報を送ったということで、メディアからの注目を集めることになった。これまで、1995年の阪神大震災で北朝鮮の姜成山首相(当時)からのメッセージが村山富市首相宛てに送られたことはあったものの、北朝鮮の最高指導者から日本の首相に公にメッセージが送られたケースはなく、金正恩氏が岸田首相に電報を送るのももちろん初めてのことだった。金正恩氏の電報のなかで、ひと際注目を集めたのは金正恩氏が岸田首相のことを「閣下」と敬称を用いて記していたことだった。北朝鮮問題に詳しい韓国人ジャーナリストがこう語る。「これまで日本の首相に対して『不倶戴天の敵』と罵倒してきた金正恩氏が、岸田首相に対して『閣下』という言葉を使ったことには驚きました。これは単なる電報ではない。冷静に分析すると、こうした言葉遣いの変化から北朝鮮側の思惑を読み取ることができる。例えば金正恩氏は米国のトランプ前大統領に対して当初は『狂った老いぼれ』などと罵倒していましたが、米朝首脳会談を行う際には『閣下』という敬称で呼び始めた。このときは制裁解除などを要求したいという思惑が北側にはあった」
金正恩氏(写真/共同通信社)
金正恩氏が電報を送り、林官房長官が「感謝する」と答えた今回の一連のやりとりは、外交的には日朝間で何らかのシグナルを送り合っているとみることができる。では、日朝それぞれの思惑とは何なのか?
北朝鮮側の思惑として想定されるのが、「日本との関係改善」である。「大陸弾道弾ミサイル(ICBM)実験や核実験を行っている北朝鮮に対して、日米韓の三カ国は“キャンプデービッド・プロセス”と呼ばれる安全保障体制の強化をお互いに確認しています。日米韓の軍事的連携は北朝鮮にとって大きな脅威となる。そこで日本に秋波を送ることで、キャンプデービッド・プロセスに揺さぶりをかけたい、ということが1つの目的だと思います」(前出・韓国人ジャーナリスト)北朝鮮が日米間の強固な体制に揺さぶりをかけようとする背景には、北朝鮮と韓国との関係悪化があるといわれている。金正恩氏は韓国との関係について「もはや同族関係ではなく、敵対的な国家関係、戦争中の交戦国関係」と宣言しており、北朝鮮に対して強硬的な尹錫悦政権との対決姿勢を強めている。「軍事衝突がいつ起きてもおかしくない」(同上)と言われるほど緊迫度が高くなっているなかで、日本と関係回復を行うことができれば日韓の足並みを乱すことができる、というのが北朝鮮側の目論見とみられる。
「軍事衝突がいつ起きてもおかしくない」といわれる韓国と北朝鮮
北朝鮮の「瀬戸際外交」という言葉は有名だが、その外交戦略の基本は「カックン理論」だといわれている。「カックン理論」とはかつて金日成氏が提唱していたもので、“カックン”とは朝鮮の知識層が被った伝統的な帽子の顎紐のことを指す。紐の一方だけ切れば日米韓の三国間のバランスを崩すことができる……すなわち、韓国の力を奪うためには日本、米国のどちらかを揺さぶればいいという意味でカックン理論と名付けられているのだ。簡単に言えば文在寅政権時代のように北朝鮮と韓国が友好的なときは歴史問題などで日本を攻め、いまの尹錫悦政権のように北朝鮮と敵対的なときは日本に近づき関係を深めることで、日米韓の足並みを乱そうという戦略なのである。前出の韓国人ジャーナリストが「亡命した元北朝鮮の高官に聞くと、金正恩氏の電報は『米韓を遮断し、日本政府と日本国民の感情を攻略するものに見えますね』と言っていました。揺さぶりであることは間違いがない」と指摘するように、金正恩氏もこのカックン理論を踏襲する形で外交戦略を練っている可能性が高い。
一方で、岸田政権が北朝鮮に近づこうとする思惑は支持率の回復にある。現在、過去最低レベルの支持率に苦しむ岸田政権に対して、昨年ごろから「岸田氏は、小泉訪朝の再来をねらっている」(政治部記者)という声が永田町では囁かれ続けてきた。2002年、小泉首相は電撃訪朝を行い金正日総書記と首脳会談を行った。この会談により、5人の拉致被害者の帰国が実現。このときの小泉訪朝のインパクトは絶大で、拉致被害者の帰国も含め世論の話題を独占したことを覚えている人もいるだろう。「岸田首相、もしくは外務省はこの再来を狙い、“岸田首相電撃訪朝”のプランを練っていると言われています。メインテーマは拉致被害者の帰国です。岸田首相が電撃訪朝後に拉致被害者とともに日本帰国する、という形を模索しているとも言われています」(前出・政治部記者)
岸田首相とバイデン大統領(首相官邸facebookより)
こうした見方が広がったのは、政権発足当初は拉致問題に関心が薄いように見えた岸田首相が、昨年から拉致問題に積極的に取り組むようになったからだった。昨年の5月27日に、岸田首相は「私自身、条件をつけずにいつでも金正恩委員長と直接、向き合う決意であると申し上げているゆえんでありますし、全力で行動してまいります」と宣言。その2日後には、北朝鮮の朴尚吉外務次官が「日本が新たな決断を下し、関係改善の活路を模索しようとするなら、朝日両国が会えない理由はない」と、好意的な反応をしたことで、日朝間の水面下で何かが進んでいるという観測が広がっていった。同年、7月には岸田首相が拉致被害者の曽我ひとみさんと面会を行った。曽我さんと総理大臣との面会は2018年の安倍政権のとき以来、5年ぶりの出来事であり、改めて岸田首相は拉致問題取り組みへの姿勢をアピールしたのだ。
岸田政権と北朝鮮側との水面下交渉については、2023年9月29日に朝日新聞がスクープ。記事によると《北朝鮮による拉致問題の解決に向け、日本政府関係者が今年3月と5月の2回、東南アジアで北朝鮮の朝鮮労働党関係者と秘密接触していた、と複数の日朝関係筋が証言した。岸田首相は北朝鮮の金正恩総書記との首脳会談に向けた環境整備を進められるとみて、今秋にも平壌に政府高官を派遣することを一時検討していた》とされ、岸田政権が金正恩氏との日朝首脳会談を模索していたことが明らかになったのだ。さらに今年の1月11日には林芳正官房長官が、北朝鮮による拉致被害者の横田めぐみさんの母・早紀江さんや、めぐみさんの同級生による「横田めぐみさんとの再会を誓う同級生の会」(池田正樹代表)のメンバーと面会をし、再び拉致問題への取り組みをアピール。昨今、PRポイントの少ない岸田政権にとっては、拉致問題の進展は「悲願」となっている状況だともいえる。
電撃訪朝はあるか…
しかし、北朝鮮との交渉は諸刃の剣でもある。北朝鮮と交渉すれば、北朝鮮側が日朝首脳会談および拉致被害者帰国の“対価”を要求してくることは明白だからだ。例えば植民地時代の賠償金の要求や、食料支援を取引条件になど、つまり、金正恩政権延命のために利用されてしまう可能性が高いし、そもそも北朝鮮は「拉致問題は解決済み」という立場を堅持している。これまで北朝鮮の非道な振る舞いを長く見せつけられてきた日本国民にとって、仮に岸田政権が北朝鮮側の条件を呑むような妥協案で手打ちをしてしまえば、支持率が上がるどころか世論の大きな反発を受けるということもあり得る。場合によっては政権にとって致命傷となる可能性すらあるシビアなものとなるだろう。金正恩氏の電報によって浮彫りとなった日朝間の歩み寄り。“外交の岸田”を自認する岸田文雄首相にとっては、その本当の真価が試されることになりそうだーー。取材・文/赤石晋一郎 集英社オンライン編集部ニュース班

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