歩けば歩くほど、被災地の厳しい現実が突きつけられる。元日の能登半島を襲った巨大地震の爪痕は計り知れない。犠牲者の数も、安否不明者も増え続け、瓦礫の山が喪失感に拍車をかける。漆工芸の輪島塗と朝市で知られる歴史と伝統の町・輪島は一変し、残された人々は不安と戦いながら生きている。
輪島市一ノ瀬の山あいの集落を、水口喜栄さん(73)がとぼとぼと歩いていた。同じ集落で同世代のマガリダさん夫妻と、50代のタケチさんという男性と連絡がつかず、その安否が気になって避難所から救助活動の様子を見に来たのだという。消防隊員らの懸命の救助を見守る間も、さまざまな感情がこみあげてくるのか、時折、涙を流していた。地震発生時は財布や携帯電話も持ち出せず、着の身着のままで逃げ出したという水口さんは、「命だけは救ってもらえた」と繰り返しながら、当時の恐怖を語ってくれた。
市内のいたるところで救助活動がおこなわれている(撮影/集英社オンライン)
「地震があったときは、ちょうど女房と一緒に近くのお宮のほうにいたんですわ。初詣の後、片付けをしにいっていたんです。そのとき、突然大きな揺れを感じて本当に立っていられなくなり、思わず地面に両手をついたほどです。能登では17年前にも大きな地震がありましたが、それとは比べものにはならない揺れ方で、お宮のお地蔵さんはグラグラ揺れ、狛犬は倒れました。それでも『家の様子を見に行かなければ』と女房とお宮を出て田畑を横切り、必死に家を目指しました。その間も『ゴオオオ』という音とともに揺れが続いていました」たどり着いた我が家は地滑りの土砂に埋もれ、跡形もなくなっていた。その場所を指差しながら、水口さんは続けた。
土砂に埋もれた我が家を見つめる水口さん(撮影/集英社オンライン)
「あのときお宮にいたのは、神様が救ってくれたんだと、今はそんな風に感じています。仮にあの時間、家にいたら……。地震の直後に山の斜面で起こった地滑りを見た近所の人が『たくさんの木が斜めに滑って降りてきているようだった』とその様子を教えてくれました。私の家はもともと、山の上のあたりにあったのですが、それが土砂で下のほうまで押し流されて、埋まってしまったというわけです」
土砂に飲み込まれた我が家を呆然と見つめていた水口さんだったが、すぐに近所の人たちの安否が気になった。「周囲を見回すと同じ集落の知人が6人ぐらい避難しようとしているのが見えたので、大声で叫んで合流しました。私は携帯も家で充電中で、財布ともども取り出せないまま、みんな土砂で埋もれてしまいました。でも、命は救ってもらえた。年金生活なので仕事の問題もないし、充分です。今は近くの公民館に避難して生活していますが、水と食料は不足していますね。昨日食べられたのはにぎりめし一個でした」
焼け野原となった輪島の町(撮影/集英社オンライン)
救助を待つであろう行方不明者については、こう思いを馳せた。「タケチさんは瓦屋さんで、去年11月に母親を亡くしたばかりでね。まじめな働き者で、地震の直前にも雪かきしてるのを見かけたんだ。マガリダさんの旦那さんは足が悪くてふだんは家にいて仕事はしてなくて、奥さんがパートのようなことをしてました。地震が起こった時、息子さんは仕事で家を出ていたから無事でした。本当に早く全員見つかってほしいと思って、今日も様子を見に来たんだけど……」一方、避難所では被災地を荒らし回る「泥棒」の“噂”が絶えないという。「地震に便乗した火事場泥棒みたいなのも増えてるみたいで、近くの病院のロッカーもバールのようなモノで荒らされたって聞いたね。幸いなにも盗まれなかったけど、近所に住んでいるウチの息子の自宅のドアノブも誰かに壊されて勝手に入られていて…。とくに避難所で噂になっているのが、他県のナンバーの車に乗った男4人組。こいつらが車に乗って周囲を物色してたらしくて、みんな心配してるよ。本当に最低な連中だな」
倒壊した家屋(撮影/集英社オンライン)
阪神大震災や東日本大震災などの被災地を取材してきたベテランジャーナリストが補足する。「この4人組が泥棒なのかは定かではないが、大きな災害ではボランティアや野次馬、そして我々報道も含めた多くの“知らない人”が被災地を出入りする。そうするとこの手の噂や犯罪の噂を必ず耳にします。バールは救出の際に使われた可能性もあるし、4人の行動も誤解だった可能性もある。だが、家や家族を失い、極限状態にある被災者を不安にさせる行動は絶対とってはいけない」
焼け野原になった朝市通りを歩いていた大学生の男性(20)は、地震当日は珠洲市の祖父母の家で過ごしていて九死に一生を得たという。「正月は珠洲市の蛸島にある祖父母の家に親戚一同集まっていました。揺れは最初のころは大したことなかったのに、40秒くらい経ってから立ってられないほど大きく揺れ出して……。居間にあった壺は次々と落ちてくるし、家が崩壊しないように壁を押さえたり、おばあちゃんを守ることで精一杯でした。揺れが収まった後は津波が怖いので、すぐに割れた窓ガラスから外にくぐり出ました。幸い、車が動かせる状態だったので、祖父母を乗せて2キロくらい先にある高台まで急いで向かいました。高台には200人を超える住人が集まり、みんなで焚き火をしながら不安な夜を過ごしました」
取材に応じてくれた大学生(撮影/集英社オンライン)
取材時に一緒に歩いていた友人の男子大学生(19)は輪島市内の自宅で被災し、現在は避難所になっている市役所で不安な日々を過ごしているという。「とにかく配給される食べ物が少なくて、昨日は水を入れると食べられるパックご飯とレトルトのハンバーグがあったんですけど、これは早い者勝ちでした。僕らみたいに乗り遅れた人は、みかんと水しか口にできませんでした。寝るときは毛布が貸し出されますが、基本的に空いてる会議室などで雑魚寝なので、寝る場所も早い者勝ちといった感じになってます。住むところがないっていうのは、これからの日々を考えるとやっぱりかなり不安ですね……」
配布された毛布(撮影/集英社オンライン)
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