「2000万円分の輪島塗のお椀も工房もすべてなくなった」「コロナ後、ようやく客足が戻りつつあったのに」伝統工芸の町を襲った大震災。郷土料理店の店員は変わり果てた店と我が家に肩を落とし「それでもなんとか暮らしています」〈ルポ能登半島地震〉

元日の能登半島地震で壊滅的な被害を受けた石川県輪島市。特に約200棟が全焼し、一面焼け野原となった名所の朝市通りの惨状は筆舌につくしがたい。
1月4日、朝市通り付近に住む60代の女性は、倒壊家屋の救助活動を祈るように見つめていた。「そこに住んでいる方は60代の女性で、ふだんは役所の事務のパートをしている方なの。地震発生から丸3日が経とうとしてるけど、本当にどうにか助かってほしいという思いしかないです。すぐ近所に住んでいた90代の女性は、お正月で集まっていた親戚の家が崩壊して即死だったそうです。町内会の班も一緒で、朝にゴミ出しで会うときも『今日暑いですね~』なんて気さくに話してくれて、90代とは思えないほど明るくて元気な方でした。亡くなった方たちのことを思うと本当に涙が出てきて…」
4日、日が落ちるまでおこなわれていた救出活動(撮影/集英社オンライン)
この女性の自宅は大火災の発生した朝市通りのすぐ近くで、必死で自宅への類焼を食い止めたという。「火災は地震当日の1日の夜に発生して、あと10メートルかそこらで自宅まで燃え移っていたところでした。この家は主人の定年退職を機に建てたもので、私たち夫婦にとっては大切な存在。だから避難所に向かう前に『やれるだけのことはやって守り抜こう』と、雨水を貯めたバケツを何度も家の壁に撒いて、炎が燃え広がらないようにしていました。火の粉が10メートル近くまできましたが、なんとか防げてよかったです」(前同)朝市付近に住む松本昌夫さん(70)は、明治45年から続く伝統工芸・輪島塗の塗師屋の3代目だが、塗師として50年目を迎える節目の年に引退を余儀なくされることになった。お椀や道具など一切合切が、倒壊した家屋に埋もれてしまったからだ。「地震が起きたときは自宅で仕事をしていて、部屋には女房と息子もいた。これまでには感じたことのないような大きな揺れでしたね。自宅はごらんの通り倒壊していますが、その奥手のほうの仕事部屋で被災しました。2007年にも能登半島は大きな地震があって蔵が倒壊しましたが、それより強い、体験したことのないレベルの揺れでした。どのタイミングで家屋が崩れ落ちたのかはわかりませんが、割れた部屋の窓から息子、女房、私と飛び出して裏手から逃げ出したんですが、幸い擦り傷が少しあるくらいで済みました。なんの拍子か、壁に飾っていた初代の写真が倒壊した家屋から出てきていましたが、保管していた約2000万円分くらいの輪島塗りのお椀などがすべてなくなりました。工房もなくなり、私ももう70歳なので事実上これで引退することになるでしょう。もちろん仕事がなくなるわけですからどうやって食っていこうって、この先不安ですけど、この状態じゃとても続けられませんからね」
輪島塗の塗師である松本昌夫さん(撮影/集英社オンライン)
松本さんは避難所には身を寄せず、車中で生活をしているという。「避難所にも行ってみたけど、ストーブの数が足りなかったり、物資を配ったりしてるわけではないから、それなら車中泊するほうがいいと思ってね。避難所で自衛隊にもらった毛布もあるし、もともと正月で帰省していた息子を送るためにガソリンを満タンにしていたから、しばらくは車中泊を続けようかと思っている。女房、息子、一緒に連れ出した犬とみんなで暮らしているよ」
朝市通りにほど近い郷土料理店「まだら館」も、大規模な被害を受けた。戦後まもない1946年に創業し、現在は2代目店主が切り盛りする、輪島塗で郷土料理が味わえる名店だ。経営者の親族(40代)が途方に暮れながら語った。「ちょうどお店も年末から休みに入っておりましたので、せっかくなのでと金沢市内のショッピングセンターに家族4人で遊びに出かけていました。金沢市内も揺れはかなり大きいものでした。地震が起きてすぐさま輪島に戻ろうとしましたが、車の渋滞もすごくて当日は一般車両は通行止めで、緊急車両しか通行が許されていませんでした。その間にも商店街の仲間たちと連絡を取り合い、輪島が大変なことになっていることや我が家の様子も聞いておりました。結局、地震発生当日は途中の羽咋市でみなさんが避難されていた施設で一夜を過ごしました」
郷土料理の名店「まだら館」(撮影/集英社オンライン)
この親族は翌2日、ようやく輪島に戻ることができた。街並みは一変していた。「店舗もかなり損害を受けていたし、蔵は倒壊していました。状況は聞いていたもののやはりショックでした。というのもここ数年コロナの影響で観光客も激減し、売上も減っていました。昨年は補助金の申請なども行い、また、ようやくここ最近客足も戻りつつあったという状況で、『今年から頑張るぞ』と思っていた矢先にこの地震ですからね……。この先どうなるかと不安ではあります。ただ、自宅部分のほうは生活ができる状態だったので、今はなんとかそこで暮らしています。もちろんまだ停電が続いているし、食糧も金沢市のほうにまで買いに行かなければならないので、まだまだ大変な状況です。携帯電話の充電は、薬局で充電サービスをやっているので助かっています。今も子どもたちは薬局に充電しに行ってます」店の前には池があり、そこで飼っていた大量の鯉も停電の影響でポンプの水の作動が止まり、みな死んでしまった。「先代のころから育てていた鯉でした。2007年の能登地震のときにもポンプの水が止まって死んでしまったのですが、それからまた飼い始めてここまで大きくしていたので、残念ですね。お店に料理を食べに来てくれるお客さまや、近所のお子さんたちも池の中の鯉を見て喜んでくれていたんですが」
全滅した池の鯉(撮影/集英社オンライン)
石川県が4日に発表した能登半島地震の犠牲者は92人、連絡の取れない安否不明者は242人に達した。前出の塗師三代目、松本昌夫さんの親戚の女性も、地震後に安否がわからなくなっている1人だという。「60代なんだけど、地震から姿を見ていないので心配していますが、倒壊した自宅で生き埋めになっているかもしれません……。消防隊員がこちらに来ると遺体が出たのかと思ってしまいますよね……」ひとりでも多くの命を救うため、必死の救助活動は続く。
焼け野原となった町(撮影/集英社オンライン)
※「集英社オンライン」では、能登半島地震について、情報を募集しています。下記のメールアドレスかX(Twitter)まで情報をお寄せ下さい。メールアドレス:shueisha.online.news@gmail.comX(Twitter)@shuon_news取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班

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