「大東亜決戦機」と呼ばれた四式重爆撃機「飛龍」のスゴさとは? 戦争末期 使われ方は“想定外”ばかりに

大戦中の兵器で「飛龍」といえば、旧海軍の空母「飛龍」が有名ですが、旧日本陸軍にも同じ愛称を冠した爆撃機がありました。
大戦中の兵器で「飛竜」といえば、真珠湾攻撃に参加し、ミッドウェー海戦にて沈没した空母「飛竜」が有名です。しかし、実は旧陸軍の方にも同じ愛称の爆撃機がありました。四式重爆撃機「飛竜」(以下:四式重爆)です。
「大東亜決戦機」と呼ばれた四式重爆撃機「飛龍」のスゴさとは?…の画像はこちら >>四式重爆撃機「飛竜」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
同機は、実戦に投入された機体の中では、旧陸軍が最後に開発した双発爆撃機となりました。卓越した性能で四式戦闘機「疾風」と共に「大東亜決戦機(大東亜決戦号)」とも呼ばれた機体です。
もともとは一〇〇式重爆撃機「呑龍」の後継機として開発されていました。一〇〇式重爆撃は戦闘機を振り切り速度と重武装を兼ね備えた爆撃機として当初計画されていましたが、実戦投入されると、防御火器以外は平凡な性能でエンジントラブルも相次いだことから、旧式の九七式重爆の方が使いやすいとまで現場から言われてしまいます。
その一〇〇式重爆の穴を埋めるべく開発が急がれたのが四式重爆で、開発は三菱重工業が担当。陸軍の重爆撃機の設計思想である「長い航続距離」「堅牢な防御力」が継承された機体となっており、海軍の九六式陸攻や一式陸攻とは違い、始めから操縦席や銃座への防弾板・防弾ガラスを設置し、燃料タンクにも防弾ゴムが施されていました。
爆弾の搭載量は満載時で1000kg以内なので、それまでの陸軍重爆撃機や海軍陸攻機と変わりませんでしたが、その速力や運動性能、航続距離は大幅に向上。航続距離3800km、2000馬力級エンジンのハ104を2基搭載し、双発機でありながら急降下爆撃が可能で、爆弾を搭載していない場合は曲芸飛行もできたといわれています。また、日本の爆撃機としては初めて胴体部を分割式にしており、量産性も考慮された機体となっていました。
1942(昭和17)年12月27日に初飛行した四式重爆は、翌年から生産が始まり、本格的な配備が始まったのは1944(昭和19)年に入ってからでした。もう戦争も後期に入り、急速に戦局が悪化している時期です。四式重爆は大陸での地上攻撃以上に、太平洋各地へ散らばるアメリカ軍基地やアメリカ艦隊に対する攻撃に比重が置かれることとなります。
そのため、1944(昭和19)年1月には、生産中の機体のうち100機が魚雷を積める雷装機型に改良され、以降はこのタイプが標準装備型として使用されることになります。海軍機ほどではないものの、一〇〇式重爆の航続距離が3000kmに対して四式重爆は3800kmと大幅に伸びており、陸軍として初めて本格的な洋上攻撃が可能な爆撃機となりました。
雷装した四式重爆は、海軍航空隊に組み込まれ、1944(昭和19)年10月の台湾沖航空戦に参加し艦隊の攻撃を担当しました。爆撃任務としては同年11月、12月に硫黄島経由でサイパンへの夜間爆撃も行いました。試作された、対艦ミサイルである「イ号一型甲無線誘導弾」の発射実験機としても使用されたこともありました。
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飛行する四式重爆撃機「飛竜」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
その後も、四式重爆は、フィリピンの戦い、九州沖航空戦、沖縄戦などでアメリカ艦隊と戦うことになりますが、戦局の悪化に伴い、1945年4月には胴体に体当たり爆弾「桜弾」を搭載した特攻機仕様まで登場。敗戦後は、降伏全権団の移動用機体としても使用されました。卓越した性能を持っていたものの、戦局が悪化してから投入された機体ということで、満足な性能を発揮できる場はかなり限られてしまいました。

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