遊技人口の減少や新型コロナ、新紙幣導入などの影響でパチンコ業界ではホールの倒産が相次いでいる。
警察庁の統計によると、2023年時点でのパチンコ店の店舗数は7083軒と、20年前の1万6076軒に比べて約56%の減少となった。
しかし、かつては庶民の娯楽として多くの人の心をつかみ、巨大産業にまで発展した。本連載では、そんな戦後・昭和のパチンコの歴史を紹介する。
第3回の舞台は昭和29(1954)年。パチンコ客の景品買い取りを巡り、暴力団や外国人らが死闘を繰り広げていた。(全4回)
(#4に続く)
※ この記事は溝上憲文氏の書籍『パチンコの歴史』(論創社)より一部抜粋・構成。
暴力団と積極的に手を結ぶことはなかったが… 暴力団がパチンコ店と手を結び、パチンコ店の近所に景品の買い受け値段を掲示した景品買受所ができた。パチンコ店は法律に抵触する自家買いを避ける方策として、また暴力団は自らの資金源として、両者はつながっていった。
昭和30年代以降、日本の暴力団は広域化していくが、換金業務がそれに一役買っていた可能性も否定できない。
ただし、パチンコ店が暴力団と積極的に手を結ぶことはなかった。なかば脅迫的なやり方に屈し、しぶしぶ買い取り業務を認めていたパチンコ店が大半だった。中には、徹底した抵抗の姿勢で臨んだ店や地域も多かった。
泥沼の利権争いに… 昭和29年以降、パチンコ店を挟み、暴力団と在日の買人(編注:バイニン。パチンコ客から、景品を買い取り、換金する人のことを指す)たちとの間で、文字通りの死闘が全国で繰り返された。
在日や中国人のパチンコ店経営者の多くは、生活に困っている同胞たちに景品買いの権利を認めていた。しかし、その利権に暴力団が介入するようになったのである。警察が取締りに乗りだし泥沼の様相を呈していくのは時間の問題だった。
「池袋の極東組は、子分1000人を数え、駅中心30軒ほどのパチンコ屋の大部分はその支配下にある。ところが、池袋に中国人の経営するパチンコ屋が開店し、極東組から『景品買い』についての話があったが、その店では色よい返事はしなかった。
開店当日、極東組幹部の朝鮮人が若いもの10人ほどを連れてやってきた。店で玉を買ってやりはじめた。が、手を使わず、足でバネを押したり、ワザと『出ないぞ』とガラスを叩いたりして、いやがらせをやった。
その後もいやがらせを続けたため業務妨害と恐かつ容疑で10名を検挙した」(「週刊朝日」昭和29年11月28日号)
暴力団の手先となって働く在日もいたのだった。中国人も負けてはいない。この記事とは別の、池袋西口にあるパチンコ店の中国人店主は、用心棒を使って脅しにきた暴力団から逆に金を巻き上げたこともあったという。
池袋では当時、中国人や在日を巻き込みながら熾烈な勢力争いが展開されていた。
当時の週刊誌(「週刊朝日」昭和29年11月28日号)は「最近、池袋の盛り場を第三国人(朝鮮人が主)が支配しようという動きがあり、これに対して極東組は『日本民族を守れ』とばかり、これに防衛戦線を張っているともいわれている」と、その様子を伝えている。
中国人や在日、日本人の暴力団という単純な民族対立の構図ではなく、景品買いを巡って複雑に入り乱れながら利権争いが繰り広げられていたのである。
死をも恐れない「おばちゃんたち」が暴力団に対抗池袋だけにかぎらず、他の街の盛り場でも同じような修羅場が展開されていた。
そのころ在日の景品買いの主流を占めていたのは「おばちゃんたち」であった。彼女らは互いの景品買いの権利を守るために結束して暴力団と対峙した。景品買いをやっていた在日の業者はこう語る。
「上野では新しい店が開店すると、おばちゃんたちが大挙して押し寄せ、暴力団に対抗するのです。そういう小競り合いはしょっちゅうで、何人も日本刀やドスで切られ死んだこともあったんです。
それでも彼女らは自分の担当する店を離れ、同胞の応援に駈けつけるのです。だいたい100人から200人くらいは集まったものですよ。暴力団員がおばちゃんの体にちょっとでも触れると自らその場に倒れるふりをする。そして仲間が119番に電話するのです。
警察とはかかわりたくありませんし、救急車がくればある程度歳をとったおばちゃんには持病のひとつやふたつあるから理由はなんとでもなる。そうやって暴力団を追いだしたものですよ」
死をも恐れない在日の婦人たちの気丈さには目を見張るものがある。実際に暴力団との争いでかなりの数の婦人が命を落としたと在日の経営者は語る。在日の人たちは、死ぬことよりも生活の糧を失うことの怖さを身に染みて知っていたのである。
こんな実話もある。新宿で景品買いをしている在日の母と20代の娘がいた。親子二人、景品買いの収入で暮らしていたが、ある日、母親が暴力団との諍いの末に殺された。
唯一の肉親である母を失った娘のショックは相当なものであっただろう。ところが、母親が死んだその日の夕方には娘がひとり黙々と景品買いをしていたというのである。