退職金の「増税」が物議をかもしている。3月5日、石破茂首相は参議院予算委員会で、退職金の税制について「適切な見直しをすべき」との見解を示した。
現行の制度は、同一の企業での勤続年数が長いほど優遇されるしくみになっており、「雇用の流動化を阻んでいる」との指摘がある。他方で、この制度を見直すことは、退職金を見込んだ老後資金の準備に悪影響を及ぼす可能性があるうえ、「増税」になるとの批判もなされている。
退職金課税の「見直し」論の背景にある事情と、その問題点について、納税者の視点から精力的に情報発信を行っている黒瀧泰介税理士(税理士法人グランサーズ共同代表・公認会計士)に聞いた。
退職金への課税は軽減されている前提として、退職金にかかる所得税の計算方法はどうなっているのか。
黒瀧税理士:「『退職所得』の金額の計算と、税率の適用の2段階で、税負担が軽くなるしくみになっています。
まず、退職所得の金額は次の計算式により算出されます。
退職所得の金額=(収入金額-退職所得控除額)×1/2
退職所得控除額は以下の通り、「20年以下」と「20年超」とで区別して計算され、勤続20年を超える人が優遇されています。
勤続20年以下⇒40万円×勤続年数(最低80万円) 勤続20年超⇒800万円+70万円×(勤続年数-20年)次に、退職所得への課税は、他の所得と合算せずに所得税が計算される『分離課税』の方式がとられています。
日本の税制の原則は、すべての所得を合算し(総合課税)、そこに所得の段階ごとに税率が上がっていく『累進税率』を適用するというものです。しかし、退職所得はその例外で、他の所得と合算せず分離して税率を適用します。したがって、税負担が軽くなります」
勤続年数20年超の人が優遇される「退職所得控除」が問題視以上の退職金への課税制度のなかで、特に問題とされているのは「退職所得控除」である。
勤続年数20年超の人が優遇される点をさして、「雇用の流動化を阻害する」などの指摘がなされている。黒瀧税理士は、そのような指摘が行われるのは今回が初めてではないという。
黒瀧税理士:「2007年(平成19年)の政府税制調査会の答申で『全体として多様な就労選択に中立的な制度とすることが求められている』との指摘がみられます。
また2019年(令和元年)にも、政府税制調査会の答申に『転職の増加など働き方の多様化を想定していないとの指摘がある』『働き方やライフコースの多様化を踏まえた丁寧な検討が必要』との記載があります。
2022年(令和4年)10月の政府税制調査会でも、同様の指摘がなされていました(※)。
そして、政府は2023年の『経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)』に退職金課税の見直しを盛り込みました。しかし、世論の反発を受け、先送りとなった経緯があります」
※政府税制調査会説明資料(個人所得課税)(2022年10月18日)
現行制度で退職金への課税が軽減されている“理由”「働き方の多様化」「雇用の流動化」といった言葉には一定の合理性があるように見える。
しかし、問題は、それらの目的を達成するために、退職所得課税、特に退職所得控除の制度を見直すことが合理的なのか、ということである。
そもそもなぜ、退職金について税負担が軽減されるしくみがとられているのか。
黒瀧税理士:「理由は2つあります。
第一に、退職金は、再就職までの生活や老後の生活の貴重な糧になるので、税負担を軽くしないとかわいそうだという理由です。
第二に、退職金は在職中の給与の後払いの意味もあります。『長期間お疲れさまでした』ということです。一度に多額のお金を受け取る場合には累進税率の適用により税負担が高くなる傾向があるので、それを緩和すべきとの理由です。
これら2つの理由は私個人の見解ではありません。最高裁の判例が明言しており(最高裁昭和58年12月6日判決)、また、どの所得税法の教科書にも必ず書かれていることです。実務上も当然の前提とされています。
退職金への課税制度を考える上では、これらを念頭におかなければなりません」
現行制度は「雇用の流動化を阻害」し「不公平」なのか退職所得控除を見直すべきとする立場の論拠は、「雇用の流動化を阻害している」「働き方によって不公平が生じる」というものである。これにはどこまで合理性があるのか。
黒瀧税理士:「そもそも、転職を考えている人が、退職所得控除に魅力を感じて転職を思いとどまることが、現実にどの程度起こり得るのか、考えてみる必要があります。
たとえば、勤続10年の人が『あと10年を超えて働けば、退職所得控除額が上がるから転職せずに頑張ろう』と考えることは合理的でしょうか。
一般的には、あまり合理的ではないでしょう。転職をする動機の多くは、今の職場の労働環境や待遇に不満がある、キャリアアップや新しい挑戦をしたい、といったものです。
そのような人にとっては、現職場で我慢して20年超も働いて、退職所得控除額が年間30万円増えることで得られるメリットよりも、さっさと転職して、有利な条件の勤務先、居心地の良い勤務先へ移ることを選ぶメリットのほうがはるかに大きいでしょう。
退職所得控除額を一律にしたからといって、『雇用の流動化』を促す効果は限定的だと考えられます」
他方で、長期間同じ職場で頑張った人を優遇することには一定の合理性もあるという。
黒瀧税理士:「その企業にしかない特殊な技術を磨く場合や、経営者として時間をかけて事業を成長させる場合です。
社会はこのような人々の頑張りによって支えられ、発展してきた側面があります。
その頑張りに報いるため、勤続20年を超えた場合に退職所得控除額を少しばかり優遇することは、制度設計として合理性があり、不公平とまではいえません。
これらのことを考慮すると、退職所得控除の額を勤続年数に関わらず一律にすべきという考え方の論拠となっている『雇用の流動化』『働き方の多様化』という理由が『増税の口実』にすぎないと解釈されてもやむを得ないかもしれません。
たしかに、バブル世代に対する反発と相まって、終身雇用は『同じ会社でぬくぬくと』というイメージを持たれがちです。しかし、実際には、大企業といえども将来安泰とはいえない時代になっています。
また、『雇用の流動化』『働き方の多様化』というロジックも、労働者のためというより、もっぱら経営者側に都合よく用いられてきたことは否定できません」
はたして本当に退職所得控除の制度が「雇用の流動化」「働き方の多様化」に対しての「阻害要因」となっているのか、同制度の趣旨にてらし、慎重に検証する必要があるだろう。
老後の資金準備にかかわる制度に求められる「安定性」さらに、黒瀧税理士は、退職金課税についての制度設計は、老後の資金準備に影響を及ぼすという特殊性があり、安定性が要求されると指摘する。
黒瀧税理士:「数年前に『老後2000万円問題』が大きな話題になったことからもわかるように、今後、公的年金だけでは生活できない時代になっていきます。しかも『人生100年時代』といわれ、老後の資金をどうやって確保するかはすべての人にとって重大な問題です。
したがって、老後の資金準備にかかわる退職金課税の制度は長期的に安定していることが大切です。国民はその制度があることを前提として老後の生活資金の準備を考えるからです。
それなのに、もし、適当な理由を付けて安易に改定されたとなると、政府、ひいては税制に対する国民の信頼が失われます」
政権与党の自民党が「裏金」問題の影響で昨年の衆院選において大きく議席を減らしたことに象徴されるように、「政治とカネ」の問題に対する国民の不満が高まり、「まじめに働いて税金を払うのがバカらしい」といった論調も多くみられるようになった。
また、「減税」「手取りを増やす」といったことを主要な「政策」と称する政党が、かつてないほど大きな支持を得るようになってさえいる。
税制、政府への国民の信頼が失われれば、国の存立自体が危うくなる。社会の高齢化が急激に進むなかで、「退職金」など老後の資金準備に影響を及ぼす税制をうまく構築できるのか。政府・国会は難しいかじ取りを迫られている。