京急の駅に「美空ひばりの歌碑」どんな関係? 歌の背景に「大開発計画」の紆余曲折 その痕跡を追う

美空ひばりの名曲「港町十三番地」は、現在の京急や川崎市が計画した運河計画とつながりがあります。現地に残る大規模な運河計画の痕跡をたどります。
昭和の歌姫・美空ひばりが1957(昭和32)年に発表した名曲「港町十三番地」。その舞台となった京急大師線の「港町」駅では、同歌が接近メロディーに使われるなどしています。
京急の駅に「美空ひばりの歌碑」どんな関係? 歌の背景に「大開…の画像はこちら >>多摩川(右上)と並走する京急大師線(画像:PIXTA)
さらに言うと、この歌は京浜工業地帯の中心である工都・川崎市が戦前に構想した「大運河計画」とも無関係ではありません。その「川崎運河計画」は、京浜電気鉄道(現・京急電鉄)主導プランと、川崎町(現・川崎市)主導プランの2つから成っていました。
話は大正時代にさかのぼります。川崎といえば、東京湾岸に巨大工場が林立し大型貨物船が港に出入りする、屈指の重化学コンビナートのイメージですが、この頃は工場誘致に四苦八苦だったようです。一帯は低湿地帯で水はけも悪く、工場建設には大規模な土盛りが必須で、費用がかかります。臨海部も干潟が沖まで延々と続き、船舶は容易に陸に近付けず、水運にも不便です。
ところが、第一次世界大戦(1914~1918年)の戦争特需で、工場進出の波が押し寄せます。ただ、当時工場の物流手段の主役は艀(はしけ)などの舟運で、岸壁や荷揚場が少ない状況は、工場誘致にマイナスとなっていました。
そこで当時の川崎町は、内陸部に運河を通し、舟運に便利な工場用地を提供しようと考え、「京浜電気鉄道主導プラン」を実行します。沿線開発に熱心な京浜電気鉄道は大いに乗り気で、工事費の大半を負担し、1919(大正8)年に工事を始めました。
経路は現在の川崎と横浜の市境をなぞるように設定され、JR鶴見線浅野駅近くの旭運河から、JR・京急八丁畷駅の直近までの長さ約2.5km、幅約27mです。八丁畷駅に隣接して約90m四方の船渠(ドック、船溜まり)を設ける予定で、「舟運接続駅」として、鉄道貨物と舟運を直結する目算もあったようです。
しかし不運にも、東京~横浜を結ぶ第一京浜国道(国道15号)の計画ルートが船渠にかかるため、やむなく運河を100mほど短縮し、船渠の場所を後退せざるを得ませんでした。
運河は1922(大正11)年に完成しますが、船渠の後退で鉄道との連携が悪くなり、船舶の利用は伸び悩みます。それ以前に、第一次大戦の終結で特需は一転大不況となり、工場進出も期待外れとなります。
次善策として京浜側は、工場予定地を高級住宅地「八丁畷分譲地」に変更して販売します。作戦は成功し、東京・横浜へのアクセスも良いため、大企業のビジネスマンや芸術家などが移住したそうです。
当初は運河の水も澄み、船渠で海水浴場を開いたほどですが、工場の進出で水質汚染がひどくなり、やがて閉鎖に。同じく、工場の煤煙(ばいえん)など住環境も悪化し始め、富裕層も徐々に離れていきました。
運河利用も少ないことから、船渠を含む北の部分は1940年代初め、近くの日本鋼管(現JFE)の製鉄所から排出されるスラグ(鉱滓:こうさい)や石炭灰で埋め立てられました。
第二次大戦後しばらくは、運河南部の工場が舟運に活用されますが、1960年代にほぼ全部が潰され、遊歩道(京町緑地)や集合住宅地などに変わっています。
一方、大正期に構想されたもう一つの「川崎市主導プラン」は、より大掛かりで、次の3ルートが計画されました。
(1)川崎河港水門から川崎市南部の中央部を斜めに横切り東京湾(池上)へ(約2.4km)(2)池上から東京湾岸を並行して北上し夜光(末広運河)へ約2.5km(3)既存の川崎運河中央部から東京湾岸を並行して北上して夜光運河へ(約5km)
これらは互いに交差し、川崎を縦横無尽に走ります。「京浜電気鉄道主導プラン」と違い、1919(大正8)年に施行された都市計画法に基づく計画で、1935(昭和10)年に内務省から正式に認可も得た“官製プロジェクト”です。
運河の工事開始に先立ち、多摩川堤防の大改修事業に合わせ、現在の川崎市川崎区港町(みなとちょう)の多摩川沿いに、1928(昭和3)年「川崎河港水門」が造られます。
建設には、この地に工場を構える鈴木商店(現・味の素)が全面協力し、敷地や建設費のほぼ全てを提供しました。
川崎河港水門はまさに運河のゲートで、しかも日本初の河港水門でもあり、大水に耐えられるように強固に造られました。
装飾も見事で、水門の塔の上には地元の名産品だった、梨、ブドウ、桃をモチーフにした、オリエント風彫刻が施されています。1998(平成10)年には、国登録の有形文化財遺産に指定されています。
ただし法律上の不備で、運河計画では、予定ルートに建築規制がかけられず、ルート上には、都市化で住宅や工場が続々と建ち、土地収用は困難でした。
それ以前に、1929(昭和4)年の世界恐慌による大不況と、続く1941(昭和16)年の太平洋戦争突入で、運河建設どころではなくなり、計画は雲散霧消となります。
結局「川崎市主導プラン」は、川崎河港水門と、内陸に200mほど掘り進んだ運河だけに留まりました。
戦後、運河は船溜まりとして使われ、隣接する味の素など周辺の工場が舟運に使いますが、これらも徐々に減っていき、2000年代以降は、千葉からの砂利運搬船が1日数回訪れる程度だったようです。
しかし2020年代には、船舶の利用が途絶え、船溜まりの大半は埋め立てられました。
ちなみに、水門の一帯は「港町(みなとちょう)」と呼ばれ、水門完成2年後の1937(昭和12)年に改名しています。昔から渡し船や小さな漁港があり「みなと」と呼ばれていたことと、川崎河港の発展を祈願しての命名のようです。
冒頭で紹介した港町駅のすぐ横には、かつて日本で初めてレコードを生産した、日米蓄音機製造(現・日本コロムビア)の本社工場があり、駅も「コロムビア前」を名乗った時期がありました。本社跡は現在、再開発され高層マンションになっています。「港町十三番地」は、美空ひばりが所属するコロムビア本社のある「港町」に敬意を表して歌い上げた、というわけです。
現在港町駅には、このエピソードの記念碑が飾られています。

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