江戸時代“被疑者”への「拷問」は横行していなかった!?「確かな証拠」に基づいた奉行所の取り調べの進め方

今年のNHK大河ドラマの舞台にもなっている江戸の町。その中で奉行所は、現代の警察・裁判所・行政機関を兼ね備えた社会システムを支える江戸の要だったといわれている。太平の世でどのような役割を担い、機能していたのだろうか。
本連載記事では、江戸の司法機関「奉行所」の組織、役割、そしてそこで働く人や関わりのある人々の日常を解説。ドラマでは語られることのないリアルな江戸の姿に迫る。
今回は、奉行所で働く町奉行・与力といった役職について見ていく。(本文/小林明)
激務の町奉行は任期が短い江戸の奉行所が東京都庁・警視庁・東京地方裁判所・高等裁判所・家庭裁判所を兼ねた、現代でいう行政・警察・司法が一本化された機関だったことは、前回(『民事訴訟だけで年間約3万5000件…それらを裁く「江戸の奉行所」とはどんな組織だったのか?』(https://www.ben54.jp/news/1879))お話しました。
今回はそこに従事する町奉行・与力といった役職の人々が、どのような武士だったか。また刑事事件の捜査と取り調べ方法などについて解説します。.
まず、奉行所の組織についてです。
奉行所は幕府の最高職・老中の支配下にありました。老中は2万5000石以上の譜代大名、つまり家康の時代から徳川に仕えていた名門から選ばれました。
現在放送中のNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺』で石坂浩二さんが演じている松平武元(まつだいら・たけちか)は、譜代のさらに上の親藩、つまり将軍家の縁戚に列しており、複数名いる老中の中でも最高位の「老中首座」です。
一方で譜代より身分の低い者が要職に就く資格ありと認められ、出世するケースもあります。将軍と老中の間の仲介役・側用人(そばようにん)からのぼりつめる田沼意次(たぬま・おきつぐ)がこれに該当し、ドラマでは渡辺謙さん演じています。
奉行所は老中の下で、江戸市政の安定、刑事事件の捜査と裁判、裁判で決した刑罰の執行を担っていました。南町奉行所と北町奉行所のふたつがあり、それぞれのトップが町奉行です。
町奉行は将軍に直接拝謁できる幕府直臣・旗本から選ばれました。
旗本は1000石以上、500石以上、100石以上など収入に格差がありましたが、町奉行へ出世すると石高は3000石になりました。名奉行とうたわれた大岡越前守は本名を大岡忠相(ただすけ)といいますが、彼もそもそもは1700石の旗本の家の生まれで、町奉行に就任し3000石を賜った人物です。
3000石といってもピンとこないでしょうから、ここでは『江戸の家計簿』(磯田道史監修/宝島社)にある1石30万円を基準とします。そうすると3000石は9億円。これが町奉行の年収です。
任期は定まっていませんでしたが、『江戸の組織人』(山本博文著/朝日新書)によると1年~数年。約20年を勤めあげた大岡忠相は例外で、有能だったからこそ長く奉行の座にあったわけです。.
任期が概して短かったのには、理由があります。
町奉行の役宅(住居)は奉行所の奥にありました。トップ画像『北町奉行所図面』の黄色の部分が町奉行の公務の場。その右の緑が住まい、つまりプライベート空間です。
赤い部分には奉行所の役人たちが詰めており、黄緑が詮議・裁きを行う裁判所で、法廷のお白洲も見えます。
町奉行は、午前中は江戸城に登城し老中らと会合を持ち、午後は奉行所に戻り、お白洲で判決を言い渡すというあわただしい日常でした。大変な激務です。しかも職住一体では、神経もすり減らしたでしょう。
それゆえに任期も短かったと考えられます。
与力は捜査・裁判の実務部隊トップが頻繁に代わるため、部下には実力者を配置する必要があります。これが与力です。
与力は引退すると、子が新規で召し抱えられたので、実質的には世襲に近い役職でした。現代は世襲に批判がありますが、与力である父を幼少時から見て育った武士ですから、覚悟と責任感は強かったでしょう。
身分は御家人で、石高は平均して200石(天保期/1831~1844の記録による)。人数は時代によって異なりますが、享保(きょうほう)期(1716年~1736)からは南・北の奉行所に各25騎(人)が配置されていました。
職務は細かく分かれていました。
内与力/町奉行の家臣が就く、いわば秘書年番方/与力の筆頭外役/「廻り」と呼ばれた事件の捜査員で外勤内役/奉行所にいる内勤。取り調べと起訴を担う「吟味方」と、判例を調べる「例繰(れいくり)方」に分かれるこれらが中心です。捜査は警察、起訴は検察、裁判は裁判所と分担されている今の時代と違い、江戸時代はすべて与力の役目だったとわかります。
この他にも養生所見廻り、牢(ろう)屋敷見廻りなどの与力がいて、それぞれの下に同心といわれる下級役人が、南・北奉行所に約100人ずつ付属していました。
時代劇『必殺仕事人』の中村主水(もんど)は同心です。彼を例にあげればわかりやすいでしょう。同心は貧乏御家人です。
取り調べに拷問が日常化していたとは必ずしもいえなかった当時の捜査と裁判の手続きについても解説しましょう。
例えば江戸で変死体が発見されたとします。外役与力と同心が死体を検分すると同時に、第一発見者を尋問します。次いで戸籍と住民票にあたる「人別帳」をもとに死体の身元を特定し、他殺と断定された場合は「あいつが怪しい」と下手人(犯人)の目星をつけ、証拠を集めて引っ立て(連行)ました。
現代では犯罪の疑いをかけられると「被疑者」、裁判においては「被告」、刑が確定したからは「受刑者」と段階を踏むのに対し、引っ立てられた者はすべて「罪人」と呼ばれました。
つまり、捕らえた以上はどう犯行を認めさせるか、どんな刑罰を科すかが焦点でした。そのためには自白が必要なため、容赦ない拷問が横行していたと考える方も多いでしょう。実際、時代劇では拷問シーンが少なくありません。
しかし、「公事方御定書」(くじかたおさだめがき)という法典には、拷問は「人殺・火付・盗賊・関所破・謀書謀判(書類偽造)、審理中に別の犯罪が発覚した場合」で、かつ「確かな証拠があるにもかかわらず自白しない場合」に行うと定められており、むやみに実行していたわけではありません。
科学的な根拠は乏しいものの、当時なりに証拠は固めていたのです。証拠はあるのだから自白しろ、さもないと拷問すると伝えれば、大半の者は素直に罪を認めたと考えられます。
上記の事件以外で拷問する場合は、老中・寺社奉行・勘定奉行・町奉行らで構成される最高司法機関・評定所で協議すると、決まってもいました。
犯行を認めない者に対しては、いよいよ拷問が始まります。
拷問は2種類あり、まず罪人を牢屋敷で痛めつける「牢問(ろうもん)」。これは勝手に行っても差し支えなしとの定めでしたが、なおも白状しないと、より激しい「拷問」を加えるというように、段階を経ていたといいます。
現代なら許されることではありませんが、拷問が容易ならざる行為という認識は江戸時代にもあり、人権がゼロだったとは必ずしもいえないでしょう。
【参考図書】
『江戸の組織人』山本博文/朝日新書
『江戸の町奉行 支配のシステム』佐藤友之/三一新書
『江戸の町奉行』南和男 /吉川弘文館
『江戸の町奉行』石井良助/明石書店
『江戸の武士大全 仕事と暮らし大図鑑』/廣済堂出版
『江戸の家計簿』磯田道史監修/宝島社

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