フォルクスワーゲン「ビートル」は、もともとドイツの独裁者ヒトラーの「国民車構想」から生まれました。同車が「20世紀を代表する小型大衆車」と形容されるまでに飛躍したのは、2人の外国人の尽力がありました。
第2次世界大戦勃発前の1938年から、21世紀初頭の2003年まで、じつに65年という長期にわたって生産された「ビートル」ことフォルクスワーゲン「タイプ1」。累計生産台数は2152万9464台を数え、「20世紀を代表する小型大衆車」として製造終了から20年以上を経た現在でも多くのユーザーに愛され続ける同車ですが、実は第2次大戦終結直後に存亡の危機に直面していたことはあまり知られていません。
しかも、1950年代に北米進出した際、広告宣伝の面から支えたのは、ヒトラー率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が迫害したユダヤ人でした。
ヒトラーが生んだ「世界的名車」なぜユダヤ人が協力? 独大企業…の画像はこちら >>第2次世界大戦中に多用された軍用小型車両「キューベルワーゲン」。ヒトラーの国民車構想によって誕生した「kdfワーゲン」のコンポーネントを使って製造された(齋藤雅道撮影)。
そもそも、フォルクスワーゲン「タイプ1」は、ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーが打ち出した、安価で高性能な自動車を国民に供給する「国民車構想」に基づいて、フェルディナンド・ポルシェ博士の手によって誕生しています。1938年に「kdfワーゲン」(kdf:歓喜力公団。ナチスによるドイツ労働者のための余暇利用組織)と名付けられた量産車のプロトタイプが発表されると、30万人以上の予約を取り付けました。
しかし、その直後にヒトラーの野心によって第2次世界大戦が勃発したことで、国民車の量産計画は頓挫してしまいます。軍や要人向けに少数が生産された以外は、主要コンポーネントを流用する形で誕生した「キューベルワーゲン」などの軍用車両にその生産ラインは転用されました。
ドイツの敗戦によって第2次世界大戦が終結すると、米英の爆撃によって壊滅したウォルフスブルクの生産工場は、連合軍の管理下に置かれます。この時に工場管理の責任者となったのが、イギリス陸軍のアイヴァン・ハースト少佐です。
彼は残されていた「kdfワーゲン」の先進的な設計に驚き、このクルマの量産がドイツ復興の足掛かりになると確信すると、焼け跡から製造設備を見つけ、残っていた金型で乗用車の生産を再開させたのです。
その後、ナチスが付けた「kdfワーゲン」という名は、ポルシェ博士の設計番号である「タイプ1」に変え、1945年中に早くも1785台の完成車を世に送り出し、連合軍とドイツの郵便局で使用されました。
しかし、ここで問題が発生します。もともと国策会社であったフォルクスワーゲンは、ナチス政府が経営を担うことを前提にしており、製造する製品と生産工場はあったものの、経営を司る会社組織が存在しなかったのです。これでは経営計画の立案や販売網を整備することができず、企業としての体を成しません。
そこでハースト少佐は、1948年にオペルの重役だったハインツ・ノルトホフを招聘し、経営母体となる会社組織の設立を命じました。これを機に品質管理や販売網、サービス網整備にまで注力し、フォルクスワーゲンの礎を築いたハースト少佐は、社長となったノルトホフに徐々に権限を移行させると、1949年の「フォルクスワーゲンAG(株式会社)」設立とともに職を辞しました。
こうして誕生した新生フォルクスワーゲン社は、オランダを皮切りに世界各国への輸出を開始します。なかでも自動車大国・アメリカへの進出は、収益性の高さが見込めることからフォルクスワーゲンの経営戦略において最重要事項とされました。
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100万台生産記念を達成した1955年型フォルクスワーゲン「タイプ1」(画像:フォルクスワーゲン)。
しかし、当時アメリカの自動車産業を牛耳っていたのは、GM(ゼネラルモータース)、フォード、クライスラーのいわゆる「ビッグ3」でした。彼らは、消費者の購買意欲をくすぐるべく乗用車の肥大化を押し進めており、それを喜んで買い求めるアメリカ人の多くは「大きなものは良いことだ!」との価値観を信じ切っていました。
それに加えて、戦争終結から間もないこの時期、アメリカ国民のドイツへのイメージは最悪と言ってよく、その出自から「タイプ1」は「ナチスが作ったクルマ」との誹(そし)りを甘んじて受け入れざるを得なかったことも影響し、販売は好調とはいかなかったのです。
フォルクスワーゲン「タイプ1」は、1949年にオランダで代理店契約を結んでいたホフマンを通じてアメリカへ正規輸出されていたものの、前述したような理由からまるで奮わず、1953年にフォルクスワーゲン自らが現地法人を設立して本格的に輸出・販売に乗り出すも、当初その成績はパッとしませんでした。
そこでノルトホフは、販売上の不利を挽回するためには広告宣伝が重要だと考え、マンハッタンにオフィスを構える広告代理店「DDB」に仕事を依頼することにしたのです。
この広告代理店は「広告はアートである」と主張する、社長兼クリエイティブ・ディレクターのウィリアム・バーンバック率いる会社でした。運命のいたずらなのか、驚くべきことに彼はナチスに迫害されたユダヤ人でした。しかし、彼はフォルクスワーゲンからの依頼に対し、部下の中でもエース級アートディレクターのヘルムート・クローネに仕事を任せることにします。
フォルクスワーゲンの広告としてクローネが打ち出した代表的なキャッチコピーは、1959年の「Think Small」です。当時の広告はできるだけ多くの商品情報を提供することに重点を置き、派手で目立つ写真とともに製品の魅力が事細かく書かれていたのに対し、フォルクスワーゲンの広告は中央やや左上方に小さく「タイプ1」の写真を配置し、余白をたっぷり使ったもの。そして、下方にはやや自虐的ながらユーモアを交えて、大きなクルマを肯定するアメリカの消費文化を批判するコピーが並びます。
フォルクスワーゲンの広告は毎回このようなテイストで展開され、インテリ層を中心に新しい広告が登場するたびに話題となりました。
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フォルクスワーゲンの窮地を救ったイギリス陸軍のアイヴァン・ハースト少佐(画像:フォルクスワーゲン)。
この広告が功を奏したのか、1960年には初めてアメリカへの輸出台数が10万台を超え、以降、1970年代に日本車が台頭するまでアメリカ市場の小型車はフォルクスワーゲンが席巻し続けました。
冒頭に記したように、フォルクスワーゲン「タイプ1」はヒトラーの思惑によって生まれた国策商品です。そのため、第2次世界大戦でドイツが負けたことで、その存在は消えてもおかしくなかったはずです。
しかし、対戦相手のイギリス軍人と迫害の対象であったユダヤ人、かつての仇敵によって商業的な成功を収め、世界を代表する工業製品にまで上り詰めたのです。その歴史は、まさに「皮肉」としか言いようがないでしょう。