衆院選の投開票日が迫っている。石破茂首相は就任前の9月30日に異例の解散・総選挙を表明。10月27日に投開票日を控え、急ピッチで選挙の準備・活動が進められることになった。
近年、選挙のたびに取り上げられる話題のひとつに、投票率の低下の問題がある。
2022年の参院選では、過去4番目に低い投票率52.05%を記録。今年4月に行われた衆院3補選では、3つの選挙区でいずれも過去最低の投票率を更新した。
過去の衆院選を比較すると、おおむね70%前後の投票率で推移していた投票率は、1996年の小選挙区比例代表並立制の導入以降、低下傾向を示している。特に、2012年、2014年、2017年、2021年の直近4度の衆院選では、投票率が50%台と低い水準となった。
そうしたなか、政治学者で大阪大学教授の松林哲也氏は有権者の投票参加をテーマに過去の選挙結果などのデータを分析。投票所の数や、新しい政党の参入といった条件が、投票率にどのように影響しているかを調査・研究している。
本連載では松林氏の研究成果を紹介し、「どのような環境や制度が、投票率の増加につながるのか」「投票率の増加は政治を変えるのか」などについて解説する。
第3回は、もし投票が“義務化”されたら投票率や政治にはどのような影響があるのか、海外の事例を参考に検討する。(全3回)
※この記事は松林哲也氏の書籍『何が投票率を高めるのか』(有斐閣)より一部抜粋・構成。
ブラジルなど「義務投票制」を採用前回と比べて投票率が突然高くなった(あるいは低くなった)事例は義務投票制の導入や廃止によってもたらされることがあります。
世界には義務投票制という制度を導入している国や地域がいくつもあります。名前のとおり、これらの国では選挙での投票を義務と定めていて、2022年時点ではオーストラリアやブラジルといった国々が投票を義務化しています。
ただし、各国の制度の中身には重要な違いがあります。投票は義務であることを定めているけれどもそれはあくまで象徴的な規定にとどめている国もあれば、誰が投票したかを毎回確認し投票しなかった人に罰則を与えるという規定を持つ国もあります。
前者の国では投票に行くことを強制されず、そして投票に行かないことで罰則を与えられるわけでもないので投票率は大きく上がらないでしょう。一方で、後者の国では制度に強制力があり投票しないことで有権者には不利な状況が生まれるので、義務投票制の導入は投票率向上につながると考えられます。義務投票制が廃止されれば投票率は低下するはずです。
“投票率上昇”と“左派的政策の実現”に寄与?罰則規定のある義務投票制の導入や廃止に伴って選挙結果や政策にどのような変化が起きたかを調べた研究を2つみてみましょう。
1つ目はスイスを対象とした研究です。スイス南西部に位置するヴォー州では1924年に国民投票での義務投票制が導入されました(そして1948年に廃止)。
投票しなかった場合、少なくない額の罰金を支払う必要があり、警察がそれを徴収に来ます。スイスの他州で義務投票制がなかった選挙区と比べた場合、ヴォー州の選挙区では義務投票制の導入後に投票率が33%ポイント上昇しました。
さらに、国民投票の対象となった政策案について左派的な立場への支持率(例えば高齢者や障がい者への年金支給に賛成する率)が高まりました。投票率の低い低収入グループなどは一般的に左派的政策(つまり政府による福祉政策や教育政策の拡充)を望むので、義務投票制が導入されることで投票率が上がり、それが左派的政策の実現につながったといえます。
2つ目はオーストラリアを対象とした研究です。オーストラリアの各州では1900年代前半に次々に義務投票制が導入されました。最初に導入したのがクィーンズランド州で1914年、最後に導入したのがサウスオーストラリア州で1941年です。
義務投票制導入の結果、投票率が24%ポイントほど上昇しました。さらに、左派的立場を取る労働党の得票率や議席率も増えました。
そして、義務投票制を導入したオーストラリアと義務投票制のない他国の政策を比較すると、オーストラリアでは義務投票制導入後に年金政策への支出が増えていることがわかりました。年金政策の拡充も左派的政策とみなせるので、義務投票制が導入されることで投票率の低い低収入グループが望む政策が実現されたということができます。
これら2つの事例は、義務投票制が導入されるとあまり投票に行かない低収入グループの有権者などが投票するようになるので投票率が上がること、その結果として低収入グループの有権者が望む左派的政策が実現されやすくなることを示唆しています。日本でも義務投票制が導入されれば同様のことが起きるかもしれません。
低投票率の改善だけでは、政治は変わらない可能性もただ注意も必要です。オーストリアを対象とした別の研究は義務投票制の導入によって投票率が最大10%ポイントほど上昇することを示す一方で、左派政党の得票率や福祉政策などへの政府支出が増えるというような関係はみられなかったと報告しています。
義務投票制の導入は低収入グループや政治への関心度の低いグループの投票参加を増やしているようですが、これらの投票者はもともと政党などの違いをよくわかっていないために自分たちの望みに沿った投票をしなかったのではと論じています。
同様にペルーを対象とした研究も、罰金額の多い義務投票制のもとでは無効票が増えることを示しています。つまり普段投票に行かない有権者が投票するようになっても、それが左派政党の得票につながらないので選挙結果にも大きな影響を及ぼさない可能性を示しているのです。
これらの研究は、低投票率を改善することは大切だけれどそれだけが目標となるのではなく、意味のある投票選択を可能にする情報提供や制度設計が不可欠であることを示唆しています。