2023年9月30日、宝塚歌劇団の宙組に所属する劇団員Aさんが自ら命を絶った――。
この事件によって宙組は公演を休止(翌年6月まで)、その不満をぶつけるかのように、一部の宝塚ファンによる、Aさんおよびその遺族に対する誹謗中傷が始まった。
「9月30日はAさんの一周忌なのに」
AさんのファンだったTさんから、「ひどい誹謗中傷がある」とX投稿のスクリーンショットとともに届いたDMは、その言葉から始まっていた。
Aさんはなぜ自殺を選んでしまったのか。劇団側は調査結果をもとに、「長時間労働を強いる環境だった」と発表。対して遺族側は過重労働だけではなく、劇団内では先輩の劇団員によるパワハラが存在し、亡くなった劇団員はそれによって精神的に追い詰められていたと主張した。
当初は否定していた劇団側だったが、最終的にはパワハラについても認め、両者は合意に至った。
しかし、いまだにSNSでは、Aさんや遺族に対する誹謗中傷が続いている。
宝塚独自の慣習が誹謗中傷の遠因に?宝塚独自の慣習を知ることは「パワハラが起きた原因や、Aさんに対する誹謗中傷がなぜ止まらないかを考えるうえで欠かせない」として、Tさんが説明する。
「すべての劇団員は、2年制の宝塚音楽学校を卒業しています。
10代の少女たちが通う音楽学校では、後輩は先輩に笑顔を見せてはいけない。後輩から先輩に対して言っていいのは、“はい”“いいえ”といった限られた言葉だけ…といった厳しいルールがあります」
厳しい上下関係がタカラジェンヌの常識だとたたきこまれた後、彼女たちは劇団に入団。「花」「月」「雪」「星」「宙」「専科(各組の舞台に特別出演するスペシャリスト集団)」の各組に配属される。
一方で、ファンは、音楽学校を卒業した少女たちを、宝塚の“看板スター”にすべく応援する。人気スターになれば、「私設ファンクラブ」ができ、劇団側もそれを黙認する。
「ほかの劇団などと比べて、出演者との距離感が近く、推しを神格化してしまう独特なファンダムだと思います」(Tさん)
たとえば、宝塚歌劇団と並び日本を代表する劇団である「劇団四季」では、同じ演目でも出演者は日によって異なる。「この人が見たい」と思っても、その週のキャストは月曜日に発表されるため、人気の演目ならまずチケットはとれない。つまり劇団四季では、観客にあえて“推し”を作らせず、舞台に集中させるようなシステムが取られている。
「事件によって長いあいだ、宙組は休演しました。それによって“推し”の活躍が見られなくなり、場合によっては推しや組が責められているように感じたり、推しとの距離が遠くなったと感じる人もいたかもしれません。そうしたことから、Aさんやご遺族を逆恨みする感情的なファンが一部に生まれたのではないでしょうか」(Tさん)
なくならない被害者とその遺族への誹謗中傷事実、Tさんから届いたスクリーンショットをみると、Aさんに対する誹謗中傷を行っているアカウントの持ち主は「宝塚ファン」を自称していた。
“亡くなった劇団員が自殺をした理由は失恋だ”
“彼女は何度も稽古を休んで、それをやさしく注意する上級生を逆恨みした”
“サイコパス下級生、遺族はモンペ”
いくら自分の推しの活躍の場が減ってしまったとしても、故人や遺族を誹謗中傷していい理由にはならないはずだ。
故人や遺族に対する誹謗中傷に法的リスクはないのか、インターネット上のトラブルに多く対応する木津葵弁護士に話を聞いた。
「Aさんに対する誹謗中傷のように、故人に対して『虚偽の事実を摘示』つまり嘘をまるで真実であるかのように示して中傷した場合は、死者の名誉を毀損したとして名誉毀損罪であれば成立する可能性もあります(刑法230条2項)。
しかし基本的に、すでに亡くなっている人は民事上の権利の主体にはなり得ず、“故人に対する誹謗中傷”を理由に、遺族が代わりに損害賠償を請求することは法律上できません。
また、亡くなっている人に対しては侮辱罪が成立しませんし、投稿で摘示されたことが真実だった場合は、名誉毀損罪も成立しません。
もっとも、生存している“遺族に対する”誹謗中傷であれば、名誉毀損や侮辱等に該当し、投稿者に対して、不法行為に基づく損害賠償義務が発生する可能性があります」(木津弁護士)
自殺した人とその遺族を守るために総務省が運営委託する「違法・有害情報相談センター」によると、SNSにおける誹謗中傷の相談件数は近年増加傾向にあり、令和5年度は過去最多となった。今回のケースに限らず、亡くなった有名人が誹謗中傷のターゲットになるケースもある。
2020年7月に亡くなった俳優の三浦春馬さんは、その死後も誹謗中傷やデマが絶えず、2021年4月には、三浦さんの所属していた芸能事務所アミューズが注意喚起を行った。
木津弁護士は誹謗中傷について、社会全体の非常に大きな問題とした上で、「誰かの名誉と表現の自由との調整は、人が感情を持った生き物である以上、永遠につきまとう非常に難しい課題です。確かに表現の自由は広く認められるべきだと個人的にも思いますが、だからといって人を傷つけてもいい理由になってはいけません」と語る。
前述の通り、故人の尊厳が傷つけられたとしても、遺族がそのことに対して損害賠償請求をするのは難しい。しかし「当然、相手が亡くなっているから誹謗中傷して良いというものではない」と木津弁護士は続ける。
「故人への誹謗中傷は遺族に心理的な負担を押しつけます。ただでさえ身内を亡くした悲しみに苛(さいな)まれている人に、さらにムチを打つような行為になっていないかどうか、投稿ボタンを押す前に考えてみてほしいと思います」(木津弁護士)