レーダーを装備して夜の闇の中、爆撃機を迎撃する「夜間戦闘機」。とりわけアメリカが第二次大戦末期に投入したP-61「ブラックウィドウ」は、他国の夜間戦闘機とは一線を画す存在でした。
第二次大戦中は、敵の夜間爆撃に対抗するため、専用の装備を持った「夜間戦闘機」が各国でつくられました。日本軍の「月光」、ドイツ軍の双発爆撃機Ju88改造型やHe219、イギリス軍のデ・ハビランド「モスキート」などがよく知られています。多くは双発機で爆撃や偵察にも使用されました。
そんな中で、アメリカ陸軍のP-61「ブラックウィドウ」は、戦局がほぼ連合国の優位に固まった戦争後期に投入されて活動の場が限られたこともあり、影の薄い存在かもしれません。しかしこの機体は、現在の全天候型軍用機の元祖になったともいえる先進性を持っていました。ややマイナーながら歴史的に重要な、P-61の開発にスポットをあててみます。
アンテナ取って付けたヤツらとは違う! 夜間戦闘機の決定版「P…の画像はこちら >>ニューギニアで活動した第419夜間戦闘飛行隊のP-61初期量産型で塗装は緑。機首の白い部分がレドーム(画像:アメリカ空軍)。
P-61を解説する前に、夜間爆撃機に欠かせない装備、航空機用レーダーの開発について説明しておく必要があります。日本とドイツは連合軍の爆撃が本格化した戦争後期から夜間戦闘機に注力しましたが、戦争初期に本土が爆撃を受けていたイギリスは、早い段階から夜間戦闘機の必要性に着目していました。
イギリスでは陸上の対空レーダー網が構築され、1940(昭和15)年に行われたドイツ空軍の英本土爆撃(バトル・オブ・ブリテン)でその威力を発揮しました。この戦いでは当初、ドイツ空軍が昼間に爆撃を行い大損害を受けたため、夜間爆撃に切り替えました。すでにイギリスは1930年代初めから夜間戦闘機の開発を進めていましたが、航空機に搭載できる高性能な小型レーダーの実用化が大きなカギとなっていきます。
バトル・オブ・ブリテンが始まって間もない1940年8月、軍事技術協力でロンドンに派遣されたアメリカ軍将校の中に、陸軍航空軍のデロス・C・エモンズ中将という人物がいました。エモンズはイギリスが開発中だった最新型の空挺迎撃レーダー(AIレーダー)を見せられます。AIレーダーは地上からの誘導を受けずに航空機が単独で敵機を探知できるシステムでした。
イギリスはこのレーダー技術を提供すると同時に、それをアメリカで生産することを提案していました。この時、イギリスが計画していた夜間戦闘機の主な仕様は、レーダーの装備とともに多連装砲塔を搭載し、ロンドンなど市街地の上空に8時間滞空するというものでした。
AIレーダーの技術情報と、イギリスによるこの夜間戦闘機の開発要件を持ち帰ったエモンズは、アメリカでも夜間戦闘機の開発が可能かどうか検討を開始しました。試作機XP-61の設計と開発はエモンズとともに技術交流でロンドンに社長自らが乗り込んだノースロップ社が行うことになり、1942(昭和17)5月にこの機体は初飛行を迎えます。
このXP-61が、やがてP-61「ブラックウィドウ」(黒い未亡人)としてアメリカで制式採用されました。
P-61「ブラックウィドウ」は、2250馬力のエンジンを2基搭載した双発機となり、機体上部に遠隔操作式12.7mm四連装機銃の砲塔、胴体腹部に20mm機関砲4門を備え、爆弾4発またはロケット弾6発が搭載可能でした。
日独の夜間戦闘機は高高度を高速で飛行する連合軍の爆撃機を迎撃するため、主力武装としてコックピット後方に斜め銃を装備し、敵機の下方から比較的防御の弱い腹部を狙うようになっていましたが、P-61は機体上部と腹部に武装があり、敵機の上下から攻撃が可能でした。
そして肝心のレーダーは、日本とドイツが機首にむき出しの棘のような「八木アンテナ」を装備したのに対し、P-61はレドーム、つまり内蔵式のパラボラアンテナを装備していました。
これらの装備によってP-61は、日独の夜間戦闘機の多くは“後付け感”のある外見とは異なる、スマートかつ重武装の夜間戦闘機として完成しました、そのレーダー装備からくる航法能力の高さは、現在の全天候型戦闘機の先鞭をつけたともいえるものでした。
ただし、P-61はその能力と引き換えに、当時の戦闘機としては並外れた大きさと重量になっていました。最大重量は、当時のアメリカ陸軍の双発戦闘機P-38の約8tより5t以上も重い約13.5tで、乗員はパイロットと射撃手、それにレーダー操作員の3名でした。
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日本軍の「月光」。夜間レーダー、いわゆる電探が突き出ていた(画像:パブリックドメイン)。
制式採用されたP-61が最初に前線に出たのはノルマンディー上陸作戦直前の1944(昭和19)年5月でした。太平洋戦域では6月にガダルカナル島へ最初の機体が到着しています。
日米戦でP-61の活動はほとんど語られることはないものの、サイパン島に配備された機体がフィリピンで日本軍機と戦っています。P-61と交戦した日本軍パイロットは、この巨大な夜間戦闘機を双発爆撃機と認識していたようです。
終戦を迎えてジェット機の開発が本格化し、使う場面が限られる夜間戦闘機は用済みになります。P-61は射出座席や新型ミサイルの空中発射など各種の実験に使用され、朝鮮戦争が終わった翌年の1954(昭和29)年にひっそりと退役しました。
しかし、英米の技術交流から生まれたこの機体は、その後の全天候型のジェット軍用機に影響を与えたものとして、航空技術史において忘れがたい存在といえます。