いまだ被害の全貌が見えない能登半島地震は、現地で事業を営む経営者や、受験を控える学生たちの心にも甚大な影響をもたらした。能登町商工会に勤務する新尚樹(しん・なおき)さんと、東日本大震災を経験した高校教師で詩人の和合亮一(わごう・りょういち)さんが、被災した事業者と学生たちの苦境を語る。
「自分のできることをやろうと1月9日に事業者向けの相談窓口を設置したのですが、『震災を機に事業を畳もうと思っている』という相談を毎日のように受けます」
新さんが設置した事業者向け緊急相談窓口(新さん提供)
能登町商工会の経営指導員・新尚樹さんはこう言ってため息をついた。奥能登地域の高齢化率(65歳以上の人口割合)は48.9%と非常に高く、能登町も石川県でトップの高齢化率を持つ珠洲市(51.7%)に次ぐ、50.4%となっている(令和2年時点)。「そのため、能登町は現役で働く高齢世代が多いのですが、被災をきっかけに意欲を失ってしまった人の声が多く届いています。先日も相談に訪れた70代の旅行代理店の方が『しばらく能登から旅行に出る人はいないだろうけど、別の業種にいまさら鞍替えできないし、事業を畳もうか』と言っていました。飲食店を営んでいる70代後半の経営者の方も『見舞金が出たとしても住まいの修復に充てる。借金を抱えてお店を再建するのは現実的じゃない』と話していましたし、それまでは『死ぬまで家業を続ける』と言っていた60代の男性も心が折れているようでした」
甚大な被害を受けた能登町(新さん提供)
そんな悲痛な声に新さんは親身になって、こう伝えている。「『まずは生活再建のことを考えましょう。事業のことは後でゆっくり考えていきましょう』と話しています。赤字も出さずに現役バリバリで働いてきた方々が、震災をきっかけに生き甲斐を失ったのはあまりに残念。政府や自治体にはなんとか事業再建のための給付金の政策をつくってほしいですね」
受験生を含め、能登に住む学生たちにもまた大きな試練が訪れている。1月17日には、学校再開のめどが立たない地域の希望者を対象に集団避難が実施され、輪島市内の中学生250人が親元を離れる決断をした。そのなかには、自分を見送る母親の涙を見て避難をためらった男子中学生もいたという。東日本大震災発生時、福島第一原発から約90キロしか離れていない高校で教師をしていた和合亮一さんは、今回被災した受験生たちの心情を慮る。
福島県内の高校の国語教師で、詩人としても活動する和合亮一さん。東日本大震災発生時は高校入試の合否判定の職員会議中だった
「書き込んできたノートなどが土砂に埋もれてしまった子もいるでしょう。試験に向けて追い込みの時期に、親元を離れなければならず、信じられないほどの不安や逃げ場のない苦しみを抱えていることと思います。そんな彼らを思うと涙が出ますし、いても立ってもいられない」では今、“被災していない人”は、被災者に対して何ができるのだろうか。「東日本大震災以降、長野県神城断層地震(2014年)、熊本地震(2016年)と次々とマグニチュード6を超える地震が起き、新型コロナも蔓延するなど、あまりにも多い災害や有事に日本全体が麻痺してしまっているような感覚さえあります。だから、当事者でない我々にできることは、被災地に対して関心を持ち続けることだと思います。そうすることで、被災地や被災者の孤独や孤立の気持ちを少しでもやわらげることができるのではないでしょうか」
和合さんが撮影した東日本大震災発生時の被災地の様子
だからこそ、「日本全体が関心を持つべき有事を差し置いて、SNSなどでは大阪万博開催のための予算と能登半島地震への復興支援を両天秤にかけた議論がなされるのかがわからないし、そういった風潮には憤りさえ覚える」と和合さん。和合さんは東日本大震災被災後、妻と息子を山形県へと避難させ、自身は福島の教職員アパートに単独で残った。孤独な日々を過ごすなかで『詩の礫(つぶて)』という連作詩をTwitter(現X)に発信し続け、注目を浴びた。詩人としても活動する和合さんが震災2週間後、2011年3月25日にTwitterにこのような言葉を綴った。
今日の余震もひどい横揺れでした。かすかな横揺れ。それが長く続いて、ゆっくりと激しい揺れと音が響いてきます。近づいてくる、地。惨事の中、暗闇を進むしかない。たゆたいながら、希望を生きていきます。だから、あなた。大切なあなた。生きて下さい。生きていって下さい。明けない夜は無い。
能登町の避難所の様子(新さん提供)
能登半島の人々は厳しい自然環境に耐え、多くの伝統工芸を守り、海の幸、山の幸を活かしながら生活をたててきた。なんとかこの窮地に日本全体で立ち向かい、乗り越えていきたい。
取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班