今年のNHK大河ドラマの舞台にもなっている江戸の町。その中で奉行所は、現代の司法機関である裁判所と警察・行政を兼ね備え、社会システムを支える要だった。
本連載記事では、そこで働き、また関わりのあった人々の日常を解説。ドラマでは語られることのないリアルな江戸の姿に迫る。
今回は時代劇の主人公として知られ、江戸の名裁判官といわれた町奉行「大岡越前」の虚像と実像について解説する。(第3回 本文:小林明)
41歳の若さで江戸の司法トップに抜擢「大岡越前」といえば昭和世代は加藤剛さん、平成~令和は東山紀之さん、最近は高橋克典さん主演の時代劇を思い浮かべる方がいるでしょう。江戸の名奉行といわれた実在の人物をモデルとした作品です。
正式には「従五位下 大岡越前守忠相(ただすけ)」といいました。従五位下は位階(位/くらい)、越前守は受領名、大岡が名字で、忠相が諱(いみな/実名)です。
ただし、受領名が越前守といっても、越前国(福井県)を統治していたわけではありません。これは単なる身分や栄誉の表示に過ぎず、実際、忠相は江戸で生まれた徳川将軍直臣の旗本で、最終的には西大平藩(愛知県岡崎市)1万石の大名にのぼり詰めます。江戸の町奉行から大名になったのは、忠相だけです。
公明正大で機知にあふれた男だったといわれ、1717(享保(きょうほう)2)年、8代将軍・吉宗により江戸南町奉行に抜擢されます。この時、41歳。町奉行には60歳前後の古参が就任するケースが多いため、異例の若さでした。その後、1736(元文元)年までの20年近く南町奉行の要職にありました。吉宗からの信頼が厚かったのでしょう。
現在放送中のNHK大河ドラマ『べらほう~蔦重栄華乃夢噺』は明和~寛政初期(1764~1789頃)を描いていますから、忠相とは時代が違います。
1722(享保7)年、忠相(ただすけ)は徳川家康と徳川家に関する本を出版禁止とするお触れを公布しました。事実上の出版統制です。官僚としての忠相の一面を物語っています。その規制が40年ほど続いたのち、重三郎らが幕府と武士たちが治める社会を風刺する本を出していくのです。
「凶悪犯は厳罰に処す」信念で“えん罪”も生んだ!? 江戸の名…の画像はこちら >>
JR有楽町駅中央口の江戸時代南町奉行所跡【東京都指定旧跡】(koro / PIXTA)
創作だらけの「大岡政談」忠相が下した判決は公正かつ人情味にあふれ、俗に「大岡政談」といわれます。その数、約80例。
もっともこれは、ほとんどが後世の作り話です。
例えば「三方一両損」という裁きある男が財布を拾ったところ、金三両と持ち主を特定できる書き付けが入っていたので、落とし主に届けました。
ところが、届けた相手が謝礼として財布の三両を渡そうとしても、男はかたく固辞。あげく「渡す」「いらない」で大げんかとなり、忠相に沙汰してもらおうと奉行所に出向きました。
話を聞いた忠相は、「それでは私が一両出すから、四両をふたりで分けて二両ずつ受け取るが良い。本来、ふたりとも三両を独り占めできたのに一両損。私も一両損。三方一両損だ」。
「実母・継母の詮議」も有名です。娘の親権をめぐって実母と継母が争い、奉行所に訴え出ました。「ふたりでその子の両手を引き合い、勝った方の子とせよ」と忠相は指示。ふたりは互いに、力の限り娘の手を引っ張りました。
娘はたまらず「痛い」と叫びました。すると片方が手を放しました。忠相は「母なら娘の痛みを察して手を放す」と言い渡しました。手を放したのは実母忠相は彼女に親権を与えます。
落語や講談などに描かれた人情話です。これらが創作されたことによって、大岡越前=名奉行という伝説が流布していきます。
忠相が極刑を言い渡した「白子屋お熊事件」実際のところ、約80例ある「大岡政談」のうち、忠相の南町奉行在任中に起きたと確認できるのは3例だけです。
しかもそのうち、吉宗のご落胤(ごらくいん/身分の低い女性に産ませた私生児)を名乗る山伏・天一坊(てんいちぼう)の虚言を見抜き成敗した「天一坊事件」と、奉公していた医師を殺害した直助という男を裁いた「直助事件」の2例に、忠相は関わっていないことがわかっています。
天一坊が実在し、将軍のご落胤を称して死罪となった事件は、徳川幕府の正史『徳川実紀』にも載っていますが、裁いたのは勘定奉行・稲生正武(いのう・まさたけ)で、忠相ではありません。
「直助事件」の裁判は忠相が統括する南町とは違うもうひとつの奉行所、北町奉行の中山時春(なかやま・ときはる)によるもので、こちらも忠相は関与していません。
唯一、忠相が裁いたのが、『享保通鑑』に所収されている「白子屋お熊事件」(1727/享保12年)です。
材木商の白子屋の娘・お熊の婿が、女中に剃刀(かみそり)で襲われました。婿は一命を取り留めましたが女中の動機が不明。南町奉行所が捜査したところ、お熊とその母が女中に指示していたことが判明します。
お熊と婿は不仲で、かつ、お熊は他の男と不義密通していたのですが、経営が厳しい白子屋は婿の実家から援助を受けていたため、おいそれと離縁できませんでした。そこで殺されてしまえば、婿の実家も離縁はやむなしと納得するとお熊が考え、その計画に母親が同意したこれが真相でした。
お熊と不倫相手、実行犯の女中は死罪、母は遠流し、お熊の父親である白子屋主人は監督不行届で江戸から追放と、厳しく罰せられました。
この判決を下したのが忠相です。凶悪犯は厳罰に処す、忠相の姿勢がみてとれます。
ただ、この事件はしばらくの間、世間から軽んじられた形跡があります。大岡政談の逸話を集めた1769(明和6)年の『隠秘録(いんぴろく)』から、唯一事実であるはずの白子屋お熊事件が漏れているのです。江戸時代の判例としては、ありきたりだったからでしょうか。
やがて事件が芝居などの題材として、かつ脚色を施されて知れ渡るようになると、忠相が下した判決として注目されるのです。
冤罪で火あぶり直前の男を救うでは、忠相が名奉行とうたわれるに至る事跡がなかったのかいうと、そんなこともありません。放火の罪で火あぶりに処される直前の無実の者を救った、「伝兵衛事件」(1725/享保10年)があります。
江戸で火災が発生しました。火付盗賊改方は目明し(めあかし/密偵)の報告を受け、伝兵衛という男を放火犯として捕らえました。伝兵衛は犯行を自白し、北町奉行所の諏訪頼篤(すわ・よりあつ)が火あぶりの刑を言い渡します。
刑が執行されるまでの間、伝兵衛は人通りの多い場所に晒(さら)し者となっていました。すると、放火の日に「伝兵衛と一緒にいた」と、声をあげる者が現れたのです。忠相はそれを、人づてに耳にします。
裁判は南と北のふたつの奉行所が毎月交互に行っており、この月は北町奉行所の担当で、南町奉行の忠相に権限はありません。それでも越権行為を承知で、忠相は「再吟味」、つまり取り調べのやり直しを北町奉行所に忠告します。
諏訪頼篤が伝兵衛に改めて問いただすと、「やっていない、火付盗賊改方の取り調べが厳しかったので、認めるしかなかった」と吐露しました。
この結果、伝兵衛は無罪放免、代わりに火盗改が出仕停止(停職)、目明しが死罪となりました。江戸庶民は忠相を称賛しました。同時に奉行所も教訓とせざるを得ず、以後、無実の罪人は出さないという意識が強くなったといわれます。
忠相の決断が、ひとりの男の命を救ったのです。
しかし、忠相に生涯一度も誤審がなかったかというと、ミスをにおわせる記述もあります。1816(文化13)年の随筆『世事見聞録』は、冤罪がひとり、死罪に相当しないのに極刑に処した者がひとりいると、忠相自身が告白したと記しています。
『世事見聞録』の著者は武陽隠士(ぶよういんし)とだけ書かれた素性不明の人物で、かつ忠相の告白は「古老から聞いた話」という伝聞です。そのままうのみにできません。捏造(ねつぞう)の可能性もあるでしょう。ただし、裁判官でもミスを犯すのは、現代でも見られます。
【参考図書】
『名奉行の力量 江戸世相史話』藤田覚/講談社『江戸の名奉行』丹野顯/文春文庫歴史群像ライブラリー『江戸の町奉行』 /学研『江戸町奉行』佐藤友之/三一書房『大岡越前守 名奉行の虚像と実像』辻達也/中公新書