「かつて暮らした場所が今は原生林のように…」浪江町・津島地区の83歳主婦が被災地を撮り続ける理由

「つい先週の日曜日、2月16日にも、浪江町・津島の元の自宅を夫婦で訪ねてきました。これまでも荒れ果てたふるさとの様子を写真に撮ってきましたが、わが家の田んぼが、まるで原生林のようになりつつある光景を目の当たりにし、原発事故前の光景とのあまりのギャップに愕然としたんです。カメラを手にしたまま、しばらくその場に立ちすくんでしまいました……」
そう語るのは、福島県安達郡大玉村在住の主婦カメラマンの馬場靖子さん(83)。2011年3月11日に起きた東日本大震災と福島第一原発事故から、14年目の春を迎えた。馬場さんは、原発事故により全域が「帰還困難区域」となった福島県双葉郡浪江町の津島地区に、事故が起きるまで30年以上暮らしていた元小学校教師でもある。
「おおらかな自然とともに、豊かにたくましく暮らす人々の笑顔が、津島にはたしかにあった。そのことを忘れてほしくないから」
と、震災後からカメラを手に被災地に入り、ときには放射線被曝から身を守るために防護服を着て撮り続けてきた写真をまとめ、昨年10月に『あの日あのとき 古里のアルバム 私たちの浪江町・津島』(東京印書館)として出版した。この写真集が注目されているのは、馬場さんが震災前から撮りためてきたふるさとの写真も数多く収録されていること。農作業の合間にお茶で一服、田んぼに連なる緑の苗、秋祭りのにぎわい、雪遊びする子供たち……。
何げない日々の営みもしっかりと記録されているからこそ、失われたものの大きさ、悲惨さが余計に見た人の心を打つ。
「“ふるさと”って、漢字で書けば普通は“故郷”で、出生地などを思い浮かべますね。でも、私にとっての浪江町・津島は、人々の生活や地域の歴史が根付いた“古里”のイメージなんです」
その古里の変化をきちんと記録しなければとの思いで、今も被災地への訪問を続けている。
「原生林のようになり始めたわが家の田んぼも、そのことを嘆くばかりではなく、写真で現実をきちんと後世に伝えるのが自分の役目と思い直して、シャッターを押しました」
馬場さんは、1941年(昭和16年)7月14日、会津の北部の熱塩加納村(現・喜多方市)に5人きょうだいの次女として生まれた。地元の小中学校を出て、高校は喜多方高等女学校(現・喜多方高等学校)へ。卒業後は郡山女子短大の家政科へ進み、栄養士の資格を取得して、喜多方市の小学校へ就職。ここで、ある出会いがあった。
「一人の高齢の女性の先生がいました。やさしいだけでなく厳しさもある方で、生徒たちにもすごく慕われていて。その師弟の交流ぶりを見ていて、やっぱり私も先生になりたいと思って、栄養士を1年で辞め、新たに都留文科大学に入り直して教員免許を取得しました」
最初の赴任先は、南相馬市の小高小学校だった。やがて、教材を手作りするなどの工夫を重ねるなかで、児童たちと心を通わせていく。やりがいをもって教員生活を送るなか、28歳で結婚。夫となった績さん(81)は津島の出身で、結婚後に「地域とともに生きる」を信条に町議会議員となる。
分校で3年間を過ごし、’79年4月に浪江町・津島に転居し、このあとの20年間を浪江小や津島小などで過ごす。60歳で教員生活を終え、できた時間で公民館活動などに参加していくなか、友人に誘われて始めたのが写真だった。
「ずっと学校での活動に夢中で、私には還暦を迎えるまで趣味がなくて。でも、いまさら絵などを習うのもおっくうでしたし、カメラならパチリとシャッターを押せば撮れると思って(笑)、軽い気持ちで始めました。かつて母親も親しんでいましたしね。それからは、どこへ行くにも、カメラをお供に出かけるのが習慣になりました。
愛用のカメラはキヤノンの一眼レフ“EOS 5D”と、田んぼなどに入るとき用に軽量のミラーレスの2台です」
町内を歩けば、必ずどこかで何かの催しや顔見知りと出会う。
「写真、撮らせて」
とカメラを向けると、
「こんな年寄りの写真を撮って、どうすんの」「ううん。ふだんの暮らしのなかのおばあちゃんがいいんだから」
そんな古里・津島の、なんでもない日常の光景が、馬場さんのカメラで次々と切り取られていった。もちろん、その被写体となる対象はわが家にも。 「夫も議員の仕事と同時に田んぼも牧畜もやってましたから、その様子も写真に撮りました。彼が議員活動で忙しいときは、私も牛のエサやりを手伝ったりも」
その言葉どおり、“あの日”の前日まで、自宅の牛舎はじめ町内のふだんの様子を、馬場さんはカメラに収めていた。
そして、2011年3月11日午後2時46分。馬場さんは体調を崩した90代の母親に付き添い、実家のある喜多方市の病院にいたときに、東日本大震災に被災。
「あの日、私は体験したことのない激しい揺れに、思わず傍らのベッドにしがみついてました。すぐにテレビを見ると、自宅のある浜通りは震度6と。その日は、移動を控えて実家に泊まりました」
続いて、翌12日の東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故。
「実家から夫に電話すると、建物は無事だった浪江町のわが家には、親戚や知人など20人以上の被災者が避難しているとのこと。それを聞いて食料を買い込み、2千円分だけガソリンを入れて、夕方に帰宅しました。議員をしていた夫は支援に走りまわり、使用不能となったトイレの代わりに地面に穴を掘って対応したりしていました。
自宅は第一原発から北西に約25キロのところにあり、当初は避難指示も出ていなくて、大丈夫だと思い込んでいたんです。といっても、けっして楽観していたわけではなく、原発事故という体験したことのない非常事態に茫然とするだけ。その証拠に、あれだけ毎日撮っていた写真のことも、すっかり忘れていました。正直、カメラどころじゃなかったんです」
テレビニュースなどで放射線の汚染マップが映し出されると、自宅の周辺は真っ赤に表示されていて、不安ばかりが募っていったという。
「3月15日には町の災害対策本部も避難指示を出して、それぞれが知人などを頼って避難。私たちは喜多方市の実家に移りました」
同市での避難生活は、この後2年9カ月にも及んだ。浪江町が線量によって「帰還困難」「居住制限」「避難指示解除準備」という3つの区域に再編されたのは’13年4月だった。馬場さんの自宅のある津島地区は、帰還困難区域となった。これは放射線の年間積算線量が50ミリシーベルト超であり、原則立ち入り禁止。安全基準とされる年間1ミリシーベルトに比べると、驚くほど高い数値だった。
やがて夏を迎えると、馬場さん夫婦は、墓参りなどのため2年ぶりに浪江町を訪ねる。
「7月には変わり果てた自宅のありさまに茫然とするんですが、もっと強烈な衝撃を受けたのが9月の再訪時でした。前回からわずか2カ月でしたが、荒れる速度が確実に、また急激に早まっていると感じたんです。そのとき初めて、このまま古里がなくなってしまうのではないかと、得体のしれない恐怖に襲われました。
私たちの地域はとりわけ汚染の数値が高く、当時の私の計算では、年間1ミリシーベルトに戻るまでに、なんと270年もかかるというじゃありませんか」
悔しい思いが込み上げる。
「よそから来た人、初めて見た人は、この荒れた場所が津島なんだと思ってしまう。でも、それは違うんですね。原発事故前の津島には、大自然に包まれた穏やかな生活があったんです」
そして、思う。
「この変化を写真に撮らねば。この地は自分が住んでいた場所なんだから、当事者として撮ろう。これは、私の告発だと」
これ以降、馬場さんは、現実の中にわが身を置くという覚悟を持って“自撮り”をするようになる。三脚を立てて、セルフタイマーで自分を撮りはじめたのだ。
「古里から、人々の住んでいた証しがどんどん消えていく。一方で春になれば、主不在の庭に変わらずにリンドウが咲いている。何が起きても自然だけは変わらない、すごいなぁと思う半面、むなしさも感じたり。そんな自分の思いを込めてシャッターを押しました」
以降、2~3カ月に一度のペースで、現在も津島に通い続けている馬場さん。災害の当事者として、土地を愛したものとして、さまざまな思いを胸に、これからもシャッターを切る。
(取材・文:堀ノ内雅一)
【後編】防護服を着て被災地の写真を撮り続ける83歳主婦「復興の掛け声から取り残された人がいる現実伝えたい」へ続く

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