2月20日 、ジャーナリストの伊藤詩織氏が監督したドキュメンタリー映画『Black Box Diaries』(『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』)に、ホテルの監視カメラ映像が無断で使用されるなどの法的・倫理的な問題があるとして、過去に伊藤氏の代理人を務めた弁護士らが、東京・千代田区の日本外国特派員協会で記者会見を開いた。
弁護士らは昨年10月にも千代田区の司法記者クラブで会見を行っていたが、1月23日に『Black Box Diaries』が第97回米アカデミー賞の「長編ドキュメンタリー映画賞」にノミネートされたこと、さらに今回の会見には海外を含む多くのメディア・記者が参加したことから、会見後、本件に関して肯定・否定双方の意見が飛び交っている。
一方で、「弁護士」という職業にとって、依頼者のために入手した証拠が無断で使用されることがどのような問題を引き起こすのかは、十分に理解されていないのが現状だ。
そこで、刑事・民事の両分野で豊富な経験を持つ杉山大介弁護士に、本件の問題点について解説してもらった。(本文:弁護士・杉山大介)
伝わりにくい「弁護士」特有の問題意識日本時間の2025年3月3日、米アカデミー賞の授賞式があった。伊藤詩織氏が監督したドキュメンタリー映画『Black Box Diaries』はノミネートされるも、受賞を逃した。もっとも、既に多数の映画祭で上映され、また多数の賞を受賞しているのであるから、伊藤氏は映画監督として成功しており、この映画も当たっていると言えよう。
一方で、伊藤氏の元代理人弁護士(西廣陽子氏)からは、映像の使用に関する問題が指摘されており、日本での公開は未定にもなっている。
ただし、弁護士特有の問題意識については、どうしても法制度に関する理解を前提とする必要があるため、伝わりにくいところもあるように思う。そこで、本件を見て私なりに思い、意識していることを文にしてみよう。
「公益性」は加害を前提にする視点である伊藤氏は「公益性」を掲げて、正当性を主張している。細かい制度的な解説を行う前に、まずは「公益性」の意味を指摘しておきたい。
たとえばダムや空港・基地などを作るために、既に暮らしている人たちを立ち退かせ、家を破壊して土地を取り上げるという場面を、映像作品やニュースで見たことがある人もいるだろう。これが「公益性」である。
全体の利益のために、一部の権利を制限してもやむを得ない。これは、憲法29条3項を代表に、法においても場合によって認められた加害行為である。
では、その権利を制限される当事者になった被害者たちがどうなるかと言えば、当然抗議し、自分が犠牲になったことを訴える人もあらわれる。公益という事情があろうが、犠牲になった人まで、その理屈に納得する必要はないのだ。
だから、西廣氏からの批判を、伊藤氏は受け止めなければいけない。伊藤氏は加害者となることを選択し、海外における映画の公開と成功という果実も享受した。この時点で、両者間の対立は、もう後戻りができないところに立っているのである。
しかも西廣氏は、現時点において、ただ問題を指摘し公共に向かって対抗言論という表現を提示しているに過ぎない。法的な強制力によって、何かをなそうとしているわけでもない。その程度の反作用は、伊藤氏も表現者として当然に受忍しなければならないものである。
それでは、西廣氏はなぜそこまで強く訴えているのであろうか。以下では、その理由を掘り下げていく。
弁護士による証拠収集の手段は乏しく、信用頼り弁護士は、事実への法的評価を加えて主張を組み立てることの専門家である。フルスペックで戦うには、事実がないとどうしようもならない。ところが、訴訟においてこの「事実」は、固い証拠によって立証しなければならない。
当事者が主張するだけでは、「訴えによって利益を得る人曰く(いわく)ですね」としか取り扱われないのだ。これが多くの事案で、本当は違法なのに「裁判では訴えられない」となる理由である。
「それでは、その証拠を集めればよいではないか」というのが次の話であるが、弁護士は、証拠を集める能力に乏しい。基本的に、強制的に証拠を得る手段はないと思っていただいた方がよい。弁護士固有の証拠収集の手段として、たとえば「23条照会」というものがある。
しかし、これも強制力を持つものではない。あくまで、弁護士会という信用ある団体に所属する、弁護士という信用ある職位の人物が、「事件のために適切に使うので開示してください」とお願いをしたのに対し、照会を受けた側が信用して開示してくれるに過ぎない。
正当な理由なく証拠開示を拒否した場合には、一定の不法行為性が認められることもありはする。だが、それによって多額の賠償が得られるわけでもない。基本的には赤字になるような訴えを起こさない限り、拒否が正当かどうかも判定されないのだ。
つまり、弁護士は、他人に「お願い」して証拠を提供してもらうしかなく、開示を断られたらどうしようもないのが基本なのである。
約束を守らないと、将来の協力が得られなくなるだからこそ、弁護士は証拠の開示を受けた際の約束を守らなければならない。個人情報などが含まれている場合には、開示を受けた情報をどこまで依頼者に開示するかも、弁護士は選択しなければならない。
仮に弁護士による約束違反があったとしても、証拠を開示した側が違法と訴えたところで裁判費用にも満たないような賠償金しか認められないだろうから、あえて訴えまで起こす人や企業は少ないだろう。ただし、次からは協力をやめるかもしれない。
これが、西廣氏が誓約書の存在を指摘して、あるいは性被害を訴える女性団体なども同調して懸念を表明している理由だ。
これについて「性被害の立証に協力しない行為を助長するような主張だ」という批判があるが、そのような批判はあまりに無責任である。協力しないことが現実に可能であるのが、現在の制度なのだ。「証拠収集の手段を増やしてから言ってほしい」と、切に思う。
弁護士という職業は、あるいは弁護士を通じて皆さんの法的権利を実現する方法は、「弁護士の信用」という極めて脆弱(ぜいじゃく)な手段を支えにしていることを知ってもらいたい。
弁護士は、依頼者との会話において萎縮してはならない弁護士は、とにかく依頼者に肩入れする仕事である。依頼者の利益を追求することを第一とし、そのためには一見公益に反することも是とされる(正確に言えば、弁護士だけは一見公益に反しても依頼者の味方をすることが、総合的には公益に資するという制度設計になっている)。
たとえば、積極的に嘘の事実を述べることはさすがに許容されないが、一部の事実をあえて伝えず、語らないことは許される。刑事事件などでは犯罪を行った人と打ち合わせをする場合もあるため、そこでの会話内容は、時に不穏当になることもある。
だが、そこまで依頼者に肩入れする姿勢があってはじめて、依頼者から信用されて、真実や本音を打ち明けてもらえるという面もある。それが、依頼者と弁護士との会話なのである。
それを、勝手に録音されて公開されてはたまらない。「法益侵害性」や「制度の維持」といったより客観性の高い評価軸を抜きにして、弁護士としての主観的な被害者意識からすれば、会話の秘密録音と公開はもっとも「裏切られた」と感じる場面である。
以下は、私からのお願いになる。弁護士との会話を無断で録音するのはやめて頂きたい。録音を希望する場合は、必ず確認をとって頂きたい。
私の場合、録音希望の話があったら、まず断るだけでなく「録音された場合、法的に固いこと以外は述べなくなります」とも説明している。録音されている状況では、模索的な検討や、仮定のなかで出た言葉も、うっかり誤った形で用いられる危険がある。
そんな状況で、依頼者の利益に偏らせた会話を行うのは不可能である、と認識している。
弁護士との契約に限らず、委任契約・準委任契約というのは、相手に委ねる契約だ。信頼関係を前提にして、任せる必要のある契約である。それができないのであれば、そもそも契約をするべきではない。
「忠実義務違反だ」との指摘もあるがさて、西廣氏に対しては「依頼者への忠実義務違反だ」という指摘があるのも承知している。私は、義務違反だとは評価しない。というよりも、西廣氏は既に義務から解放されていると考える。
なぜ、弁護士は依頼者へ忠実を尽くさなければならないのか。それは、信頼関係を前提にして任されたからだ。それでは、依頼者が受託した人間の権利を害し、信頼関係を破壊した時にはどうか。
委任の前提である「信頼関係」がなくなっている以上、受託した人間も自分を守り、反論する機会が得られて当然だ。 西廣氏は、自分の言葉が他者に一方的に編集された形で公開されてしまったことについて、自分が証拠取得の際に求められた誓約が破られたことについて、自らの弁明を行う必要がある。
西廣氏をそこまでの状況に追い込んだのは、伊藤氏に他ならない。伊藤氏は既に紛議調停も申し立てているが、懲戒請求などに進むのであれば、西廣氏としては現在以上に防御のために主張すべき必要性が高まり、言及できることも増えるかもしれない。
伊藤詩織氏監督映画『Black Box Diaries』をめ…の画像はこちら >>
外国人特派員協会で会見を開いた西廣弁護士(左)(2月20日都内/弁護士JPニュース編集部)
伊藤氏には加害の意識が欠けていたのではないか会見における西廣氏の発言からすると、『Black Box Diaries』の映像を初めて見せられた際、西廣氏は打ちのめされた気持ちでいた一方、伊藤氏は成果をお披露目するような意識で接していた様子が感じられる 。
実際はどうだったかは、それこそ「ブラックボックス」の部分だが、映画が製作される過程で、誰にどのような情報が伝わっていたのかは気になる点だ。西廣氏の側は問題意識を繰り返し伝えていたようだが、それが伊藤氏本人に正確に伝わっていたのかは、今回の顛末(てんまつ)を見ると疑問にも思えてしまう。
先日、伊藤氏に対して性加害をした山口敬之氏に関する「伊藤詩織さんに対して計画的な強姦を行った」「1億円超のスラップ訴訟を伊藤さんに仕掛けた、とことんまで人を暴力で屈服させようとする思い上がったクソ野郎」との投稿は名誉毀損(きそん)にあたらないという結論が、最高裁で確定した。
この結論が出たのは、伊藤氏が西廣氏と共に自らの民事裁判のなかで「伊藤氏が被害者であり、山口氏が加害者である」ということを世に承認させていたからこそ、と言っても過言ではないと思う。
そのため、この映画の公開によって伊藤氏はようやく「名誉」が回復されるわけではない。おそらく、それ以上の「栄誉」のようなものが得られるのだろう。
ドキュメンタリーには実際の映像や資料が用いられるとはいえ、そこに編集の方向性や製作者の意思が入るという意味では、創作的な面も当然ある。伊藤氏には、作中で描き、伝えたかった自分があるだろう。同意と約束に反してでも「伝えたい」と考えることに、エゴがないと言えるだろうか。
なお、私は、エゴがあるから悪いと言っているのではない。ただ、本件は自己防衛のためにやむを得ずといった話ではなく、結局のところ表現によって得ようとした価値があり、それが侵害された価値と対立しているのだろうということを指摘したいのである。
映画を通して伝える公益性なり、その他の価値によって、「他者への権利侵害や約束の反故(ほご)が違法ではない」と評価される可能性は、十分にある。
ただし、仮にそれが適法であっても、加害性を有することは変わらず、権利を害された相手が怒ることには理由があるのだ。
伊藤氏は自らの選択に自覚的であるべきであり、誰もが手放しに承認してくれることを期待すべきではない。
許しがたいのは「被害」を軽視する人々私が本件について許しがたいのは、侵害された意思や権利を、軽視する者たちである。あたかも、些末(さまつ)なことで伊藤氏の活躍が阻害されようとしているかのように語る者たちである。決して、伊藤氏本人ではない。
「被害は些末だ」という誤った評価と、「被害が些末だったら無視してもよい」という姿勢において、彼らは二重に悪辣(あくらつ)だ。
ここで問題になっているのは「些末」なことではない伊藤氏の事件のように公的機関が本来果たすべき役割を果たさない時、民間の一私人が自らの権利を主張し、それが法的に是認されるためには、証拠収集の大きな壁がある。その限られた手段のなかで、時にはリスクを負いながら活動する弁護士が必要となる。
その活動のために築き上げられてきた、依頼者と弁護士との間の、あるいは弁護士と社会との信用を「些末でどうでもよいものだ」などと考えないでいただきたい。その思考は、一個人の権利の実現をも妨げることにつながる。
「同意」の価値も理解すべきだ。性行為については、同意の存在という一つの事実の有無によって、それがただの男女の営みなのか、重大な犯罪なのかが変わる。人が何かに関わることについての同意の有無は、それが他人を加害しているかどうかについて大きく結論を変える、重要な事実なのだ。これを、些末であるかのように考えないでいただきたい。
「些末なものだから無視してよい」という思考の問題点そして「些末な権利だから、より重大な価値のためには無視されてよいのだ」と言わんばかりの思考を、この伊藤氏の事件について持ち出すことの意味を、よく考えていただききたい。
伊藤氏を加害した山口氏は、総理大臣や内閣高官ともつながる重要な人物であったために、捜査機関は何らかの価値を重視したようであり、逮捕状が潰されて通常の捜査が行われなかった。それどころか、その後に内閣調査室による伊藤氏への中傷などが発覚するなどの事態も続いた。
この悪辣な行為に加担していた人間たちが、伊藤氏の権利や訴えを「些末なもの」として扱っていたのは明白である。
西廣氏は、重大な権利や制度が害されたと考えたからこそ、わざわざ対抗言論を発しているのだ。それでも、『Black Box Diaries』を公開する価値がより大きく上回るという評価までは否定しない。しかし、まずは、そこで対抗している価値を正しく認識していただきたい。