昨年12月18日、女子学生に性的暴行を加えたとして強制性交等罪に問われた滋賀医科大学の男子学生2人の控訴審で、大阪高裁(飯島健太郎裁判長)が「逆転無罪」判決を言い渡し、社会に波紋を投じた。SNSでは高裁判決に対する非難の声が多くあがり、反対署名運動にまで発展。集まった署名は10万筆を超えた。
一方で、そうした動きに対して多くの司法関係者が苦言を呈することになった。袴田事件の弁護団の1人である戸舘圭之弁護士もその一人。本件に関して、戸舘弁護士がどのような問題意識を持っているのか、話を聞いた。
大原則「疑わしきは被告人の利益に」が忘れられている?大阪高裁の逆転無罪判決と、その後に起きた署名活動など社会の反応について、どのような問題意識をお持ちでしょうか。戸舘弁護士:そもそも刑事裁判とは、ある人物を犯罪者として処罰するのかどうかを決める、国家権力による大掛かりなプロジェクトです。悪いことをした人を処罰することは、社会を営むために必要ですが、同時に無実の人も罰せられてしまう可能性があります。
罪を犯していない人が罰せられてはいけないということは人権概念の重要な要素であり、「疑わしきは被告人の利益に」という大原則に基づいて、検察官の立証に少しでも疑わしい部分があったら無罪にしないといけません。
私は、袴田事件の弁護をする中で、この原則は本当に大切なことだと思いました。袴田さんの場合は冤罪が晴れるまで58年もの歳月を要しましたが、この時間は取り戻せません。
しかしここ数年、ある種の犯罪が問題になる場面では、その原則が忘れられているのではという危惧を覚えます。
今回のように、特に性犯罪の裁判では顕著で、有識者ですら原則とは真逆のことを言っているのではないかと思うことがあります。
性犯罪の場合は、社会における男女の不平等に対する憤りの発露になりやすいのかもしれません。戸舘弁護士:心情的に被害者女性に寄り添えば、憤る気持ちもわかります。しかし、どれだけひどい事件であっても、刑事裁判の原則は守らねばなりません。
そもそも、刑事裁判では「被害者」なのかどうかがまず問われることがあります。本当に「犯罪」がなされたのか慎重に考える必要があります。
被害者保護はとても重要ですし、性犯罪において女性の権利が十分に保護されていないという現実があるとしても、刑事裁判の原則を無視したり軽視することは許されません。
この件に限らず社会全体が、ストレートに刑罰や制裁を望む方向になってしまっている気がします。実際に、刑法改正により処罰範囲が拡大し、厳罰化されました。厳罰化を歓迎するというのは、本当の意味でのリベラルや人権派からは出てこない発想ではないかと思います。
性犯罪、性暴力をなくし、不平等の改善を求める方向性として、それでいいのか疑問があります。
無罪判決への上訴は必要なのか戸館弁護士はとりわけ冤罪問題に熱心ですが、その動機はなんですか。戸舘弁護士:感覚としては、性犯罪に憤る人と大きな違いはないと思います。素朴な正義感ですよね。
弁護士になって、袴田巖さんのように冤罪に苦しんでいる人のほか、凶悪殺人を犯したことが明らかな人や死刑判決を受けた人の弁護も担当してきました。話を聞いていると、その人の行為は個人だけの責任なのか、そういう人こそ誰かが弁護しないといけないのではないかと考えるようになりました。
人権というものは、自分が一番嫌っていたり、一番許せなかったりする人にも保障されているものです。だから弁護士は極悪人でも弁護する。弁護士こそが人権の担い手だと自負しています。
社会は袴田事件の教訓を生かせているでしょうか。戸舘弁護士:私は、今回の大阪高裁の件も袴田事件と地続きの部分があると思います。「性行為の同意がなかったのか?」と問うのは、「袴田さんが人を殺したのか?」と問うのと同じで、合理的疑いを超えた証明ができていなければ、有罪にしてはいけません。
検察は裁判の中で有罪に見えそうなストーリーを上手に作ってきます。袴田さんの裁判でも、検察は当初から袴田さんが犯人だと言い続けていました。でも本来は、それと矛盾する証拠や証言が出てきたら、どれだけ疑わしくても無罪にしないといけないはずです。
無罪判決に対して検察官が上訴できることについても議論があります。イギリスやアメリカでは禁止されていますし、日本も憲法39条で「既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない」「同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない」とされている。にもかかわらず、一審・二審で無罪判決が出ても検察が上訴できるのは憲法違反だという意見もあるんです。
私も「疑わしきは被告人の利益に」の原則から言って、一度無罪判決が出たら、その判決が確定すべきだと考えます。無罪判決が出たということは、立証に疑いが残っているということですから。
報道は刑事裁判の原則を守れているか今回の大阪高裁の逆転無罪判決では、マスメディアから判決を簡潔に伝える一報が出てすぐに大きな批判が起こりました。刑事裁判におけるメディア報道の姿勢に関して、どうお考えですか。戸舘弁護士:判決の内容をきちんと知らないまま反射的に批判をする人が多かったという印象ですが、メディアも判決内容を正確に報道し切れていない部分があったのではないでしょうか。
裁判報道は、淡々と判決を記述し裁判長の言葉を短く引用するというパターンが多いですよね。たとえば今回は、一審が全面的に信用した被害女性の証言について「本当に信用できるのか、地裁の検証は十分だったか」ということが争点の一つになっていましたが、そうした裁判の実態や重要な論点が伝わらないまま、世論が動くこともあります。袴田事件の場合は、マスメディアも袴田さんを犯人と決めつけていたため、もっと劣悪な報道だったと思いますが。戸舘弁護士:それは今も変わっていないです。
そもそも、被疑者(容疑者)の段階でメディアは実名報道しますからね。弁護士の立場からすると、逮捕されて実名が出るのは社会的な被告人の“死”を意味します。起訴されずに終わる事件でも、一度名前が出てしまったばかりに世間から白い目で見られてしまうケースはたくさんあります。
一方で、警察官が不祥事を起こした事件では匿名報道だったりもするので、警察の情報の出し方も平等ではありません。
そうした報道姿勢は、マスメディアもまた「疑わしきは被告人の利益に」という原則を軽視していると言えるでしょうか。戸舘弁護士:建前では「人権を尊重している」と言いますが、センセーショナルな事件が起きれば“別のこと”が優先されているような気がします。それはマスメディアのせいであるとも言えるし、時として被告人や被害者のプライバシーまで踏み込むような詳細な報道を求める私たち一般市民の責任でもあると思います。
報道の受け手である私たちもまた、報道のあり方に影響を与えているということですね。では、私たちが刑事裁判の原則、そして人権を軽視しないためには、どのような意識が求められるでしょうか?戸舘弁護士:犯罪者を罰したいというのは、人間の自然な欲求なのだと思います。それは正義感からくるものですが、刑事裁判の原則を重視する立場としては、ちょっと立ち止まって考えることが大切だと強調したいです。
今回の件で言えば、判決の詳細が明らかになってから意見を表明しても遅くなかったはずですし、無罪判決を出した高裁の判断が本当に不合理なのか慎重に吟味してもよかったはずです。
冤罪は誰にでも起こり得ます。火のないところに煙は立たないなんて言われますが、そんなことはないです。どこで犯罪を疑われるかは、本当にわからないんです。冤罪を自分ごととして想像していかないと社会全体が「処罰しろ」の声ばかりなってしまい、そのことに疑問を持たない人たちがますます増えていくのではないでしょうか。